实学家陈元赟
柔道诞生于日本,是一种两人徒手较量的竞技运动,深受日本人民喜爱,日本素有“柔道之国”的称号。日本的柔道与一位中国人有直接关系,他就是明末清初中日文化交流史上不可忽视的人物——陈元赟。
陈元赟(1587—1671),原名珦,字义都,号芝山,又称陈五官,自称“大明武林”或“大明虎林”,杭州余杭县陈家桥(今杭州市余杭区)人。十八岁时便参加县学考试,结果名落孙山,自此不再参加科举考试,断绝仕途。于是,他离开家乡,四处游学,开始飘蓬人生。明万历四十一年(1613),二十七岁的陈元赟到河南登封县少林寺习武,虽然只有短短的一年的时间,但他在寺内管理陶器和药材,研学了武术,进修了制陶技术与医道。一年后,他离开少林寺,继续四处游学。陈云赟虚心好学,虽长期漂泊四方,但仍然勤奋读书,并熟练掌握了多种实用技能,这些技能成为他长期游学的谋生之术,也成为他交友的资本。万历四十七年(1619)秋,他随同客商到日本长崎,不久患了痢疾,身上所带盘缠用尽,不能回国,遂滞留日本。
关于陈元赟远赴扶桑的原因,大概有以下几点,一是躲避乱世,栖身它邦。明朝末年,各地农民起义风起云涌,社会动乱,民不聊生,居无定所的陈元赟应该更能感受到生活的艰辛,远赴日本倒是脱身之法。二是委身商旅,经商谋生。明朝末年,虽然朝廷曾长期禁止海外贸易,但“隆庆开关”(1570)后,海禁解除,前往日本的商船络绎不绝,而且海外贸易能获得巨额利润。出海经商不失为东南沿海居民的生存之道。三是云游海外,增长见闻。这一点也符合陈元赟喜欢四处游学的性格。
陈元赟三十三岁到达日本,八十五岁卒于名古屋,在日本居住五十二年,这期间的生活并非一帆风顺。
天启元年(1621),由于沿海日本浪人与海盗勾结,常常抢掠中国商船,朝廷派浙直总兵单凤翔到日本,与幕府协商约束浪人行为等事宜。当单凤翔来到长崎时,翻译员沈茂人推荐陈元赟做单凤翔的临时翻译,并随同前往京都参与谈判。
日本浪人,指那些失去了主家和俸禄的武士。幕府统治时期,武士阶层成为国家的实质掌权者,天皇只是精神领袖,武士阶层的最高领袖是幕府将军,各地的大名都有自己的家臣和部将,家臣或部将依附大名生活,一旦遭遇主家获罪或被其他大名吞并的情形,武士就失去了自己的封地和俸禄,变成失业游民,这些武士彪悍有力,往往成为社会一股不稳定的力量,他们有的做保镖、当武师谋生,有的则沦为劫匪强盗。德川幕府时期,浪人为患的问题特别严重,因为德川家族为了削弱大名势力,找各种借口没收大名的土地,比如,不允许养子继承土地,到德川幕府第三代将军德川家光去世的时候,日本已有40多万浪人。(尹霞著,2019)
て、東南海域の唯一の海上覇者になった。海商は彼の「同安候鄭府令牌」を持っていなければ、海に出てはいけなかった。一方、明朝廷の段取り従い、清の勢力を討伐した。鄭氏集団の発展と同時に、鄭彩氏の勢力も強まっていった。鄭芝龍と鄭彩の関係も親子のように親密だった。鄭芝龍は鄭彩と鄭聯兄弟をアモイ、金門に駐屯させた。鄭彩はアモイで10年以上経営に苦心していった。これは彼のその後の活動の基礎を築いた。
1645年、清兵が南下した時、鄭彩と鄭鴻逵の二人は兵を率いて南京に行き弘光帝を助けようとしたが、途中で南京が清兵に攻め落とされ、弘光帝が捕らえられたと聞いた。鄭彩と鄭鴻逵は杭州で唐王の朱聿鍵に出会った。二人は唐王を福建省に迎え、隆武帝に擁立し、鄭彩は永勝伯として取り立てられた。鄭芝龍は唐王が福建省に入ったことを全く知らなかったため、鄭彩と鄭鴻逵に不満を持っていた。鄭鴻逵は鄭芝龍の弟だったが、二人の性格は全く違っていた。鄭芝龍は海賊から生まれた典型的な海賊気質で、利益のみを追求していた。鄭鴻逵は科挙取士で、文人気質を持っていた。鄭鴻逵と鄭彩との関係は逆に密接で、二人はよく詩を作ったり吟じたりしていた。鄭芝龍は権力を独占しようと、鄭彩と鄭鴻逵の二人を浙江に出兵させたが、故意に十分な兵馬と食糧を提供しなかった。その結果、鄭彩と鄭鴻逵は次々と敗退し、惨敗して帰ってきた。鄭彩は爵位と官職を奪われ、隆武朝にとどまることができなくなり、本部の兵士を率いて浙江省舟山に赴き、監国である魯王の朱以海に身を投じた。魯王は1645年に浙江省紹興で監国を務めたが、清兵が南下し、魯王は後退せざるを得なくなり舟山に至った。唐王が帝位につくのは魯王よりもやや早く、浙東を除く各地の南明勢力に認められたが、魯王の勢力は浙東の一角のみに限られ、清兵に追撃されて敗退を繰り返し、「海の天子、舟の中の相国」とからかわれた。
鄭彩が魯王に敗北したのは仕方がないことで、魯王朝と隆武朝の両方は水と火のように相容れなく、歴史上では「唐魯の争い」と呼ばれた。魯王の周りの多くは浙江籍の大臣で、彼らはすべて科挙出身の文人で、多くは気節を自慢していた。もともと鄭彩という福建籍の海商成金を軽蔑していた。まして鄭彩は隆武朝に叛いて逃げ出したので、さらに軽視していた。しかし、鄭彩の海商勢力は間違いなく魯王朝に少なからぬ軍事力を増強させた。自尊心の高い文臣たちは鄭彩に頼って魯王の小朝廷の統治を維持しなければならなかった。これにより、魯王朝の内部は福建·浙江両派、文武両派が対立する危機を最初からはらんでいた。
日本名古屋建中寺,福清黄檗文化促进会供稿
建中寺 名古屋市 (福清黄檗文化促進会提供)
南明の魯王小朝廷と海商との間は実は一種の取引があり、海商は封侯から爵を賜るのを待ち、小朝廷は海商の支援を必要としていた。商人でありながら泥棒も厭わないとする海商が官界に入ると、官界の政局はさらに悪化した。1646年、隆武帝が汀州で遭難すると、鄭彩は魯王を福建に迎えた。鄭彩は建威侯の後に建国公に進出し、官爵はとても輝かしかった。しかし、鄭成功らは魯監国を受け入れなかった。1648年、鄭彩は大臣の熊汝林と鄭遵謙を殺害し、銭粛楽は憤慨して亡くなった。鄭彩の行動は国民の怒りを引き起こした。鄭芝龍と鄭彩の行動は、海事商人によく見られる利益重視の狡猾で残酷な本性を反映している。
対照的に、鄭成功は「通洋裕国」を提唱し、富国強兵のために、海上貿易を積極的に発展させていた。父の鄭芝龍の商品流通ネットワークと市場を受け継ぐほか、港をコントロールするために、アモイを奪取することを最優先事項とした。永暦四年(1650)中秋、鄭成功は鄭彩を襲い、アモイを占領した。鄭彩は魯監国に助けを求めたが、かえって魯王の部隊に攻撃された。鄭彩はアモイに退いて、仏門に帰依した。鄭成功の叔父である鄭洪奎は金門に駐屯していたから、船をすべて鄭成功に引き渡した。鄭成功はアモイと金門を獲得した後、積極的に福建省南部で食糧を徴集したり、開府して官を設けたりして、「通洋裕国」のためだけではなく、抗清ないし台湾の復興のためにも経済的基礎を提供した。(盧承聖、2016年)
隠元がアモイに到着した後、鄭彩は何度も訪問した。この時の鄭彩には兵権がなく、アモイで長い年月休養していた。すでに昔の野望を失い、二人は詩句を贈り合った。1655年、隠元が日本の長崎に到着した後、51歳の鄭彩は、七律詩を書いて贈呈し、仏に一心に向きあう自分の心情を表現した。ただ、1659年に鄭彩が亡くなるまで、隠元とは会っていなかった。
実学者の陳元贇
柔道は日本で生まれた。二人が素手で勝負する競技で、日本の人々に愛さ れ、日本は「柔道の国」として知られている。日本の柔道は、明末から清代初期の中日文化交流の歴史の中で無視できない人物——陳元贇と直接関係が ある。
名古屋建中寺陈元赟墓,福清黄檗文化促进会供稿
陳元贇の墓 名古屋建中寺 (福清黄檗文化促進会提供)
陳元贇(1587—1671)は浙江省杭州余杭県陳家橋(現在の杭州市余杭区閑林鎮)で生まれ、本名は陳五官(5番目のため)とも呼ばれ、字を義都とし、号は芝山である。自ら「大明武林」あるいは「大明虎林」と名乗っていた。18歳で県学の試験を受けて落第し、それよりのち科挙の試験を受けなくなり、官途を絶った。そこで、彼は故郷を離れて、あちこち遊学し、放浪人生を始めた。明万暦四十一年(1613)、27歳の陳元贇は河南省登封県の少林寺で武術を学び、わずか1年であったが、寺内で陶器や薬材を管理し、武術を学び、陶器の技術や医道を学んだ。1年後、少林寺を離れ、遊学を続けた。陳元贇は、長い間四方をさまよったが、勉学に励み、多くの実用的な技能を身につけた。これらの技能は、彼の長い遊学の生計を立てる術となり、交友の資本となった。万暦四十七年(1619)秋、旅商人に随行して長崎に渡ったが、やがて赤痢にかかり、持ち物を使い果たして帰国できず、日本に滞在した。
陳元贇が日本に赴いた理由については、おそらく次のような点があげられる。一つ目は、乱世を避けてその国に身を寄せたこと。明王朝の末、全国各地で百姓一揆が次々と起こり、社会が動乱し、人々は安心して生活することができなかった。居場所が定まっていなかった陳元贇は生活の辛さを他人よりも身をもって感じたはずで、遠く日本に行くのはそこから抜け出す方法であった。二つ目は商売に身を委ね、商売を通じて生計を立てることである。明王朝末期には朝廷が長期にわたって海外貿易を禁止していたが、「隆慶開関(港を開放する)」(1570)以降は海禁が解除され、日本への商船が後を絶たず、海外貿易は巨額の利益を生む可能性がある。海に出て商売をすることは東南沿海住民の生き残りの方法であった。三つ目は海外を行脚し、見聞を広めることである。この点もあちこち遊学するのが好きな陳元贇に合って いる。
陳元贇は33歳で日本に到着し、85歳で名古屋で亡くなった。彼は52年間日本に住んでいたが、その間の生活は決して順調ではなかった。
单凤翔访日之时,日本刚刚经历了一场残酷的内战,国内浪人数量激增,幕府根本无心管束沿海倭寇,单凤翔的请求无法得到回应,只能无功而返。陈元赟因为充任单凤翔临时翻译,在京都逗留了三个月,期间结识了著名汉学者户田花屋,朱子学者林罗山、石川丈山、松永尺五等人,他们诗酒唱和,引为文友。
陈元赟以教授书法和行医针灸在日本艰难谋生,没有固定职业,在长崎、京都、荻津、江户等地漂泊不定。明天启六年(日本宽永三年,1626),陈元赟赴日的第七个年头,他寄居在日本江户的西久保国昌寺中,把中国少林武术传授给了寺内僧侣,当时还有三个游荡的浪人也寄身于此,三位浪人也拜陈元赟为师。三人将陈元赟的少林拳术与日本的柔术融合,各成一派,传遍日本各地。国昌寺成为当时学习柔道的中心,陈元赟也被称为日本柔道的鼻祖。
明崇祯十一年(日宽永十五年,1638),陈元赟的命运开始好转。他的诗友武野安斋是尾张藩主的儒臣,武野安斋将他推荐给日本江户幕府御三家之一的尾张藩主德川义直。陈元赟担任尾张藩主的儒官和医臣,前往名古屋,有了固定的职业和收入,他开始跻身日本中上层社会。当时日本很多知名人物慕名而来,纷纷拜陈元赟为师,向他学习书法和作诗。陈元赟于是安心为尾张藩府服务,娶妻生子,在日本定居下来,为中日文化交流做出了很大的贡献。
1659年,陈元赟在川澄文子家里与日本日莲宗僧人元政(1623—1668)相识,两人年龄虽相差36岁,但一见如故,十分投机,遂成忘年交。久居日本的陈元赟经过勤奋努力的学习,已熟练掌握日语,两人交流毫无障碍,他们一起阅读中国古籍,切磋诗艺,对袁宏道的性灵说推崇备至。他们长期相互赠文,结下深厚的友谊,这些赠文汇集而成一本文集——《元元唱和集》,里面收录绝句、律诗、词赋、散文等多种文体,这是日本首部中日诗人合著的公安派诗文集。陈元赟借此向日本文坛传播了“公安派文学”,并推动了日本文学的革新。后来,日本学者山本北山等人,就是以公安派文学主张为理论武器,倡导文字通俗化。陈元赟还主持了“御庭烧”,制作了各种“元赟烧”陶器,这也成为名古屋的特产之一,此外,他独创的“陈氏茶道”,在日本社会也风行一时。他与朱舜水(1600—1682)、隐元、张振甫等人时有往来,与隐元亦有交往,两人惺惺相惜,互有赠诗。他还与日本汉学者鹈饲石斋(1615—1664)合作把30多部中国典籍用假名训点,为中国文化向日本传播做出重要贡献。
明熹宗天啓元年(1621)、浙直(管轄地域:南直隶、浙江、山東、福建、広東、広西など)地方総兵官の単鳳翔が日本に派遣されて倭患の件について話し合った。当時沿海の日本浪人が海賊と結託して中国商船を略奪することが多く、単鳳翔は日本の江戸幕府(徳川幕府)に日本浪人の行為を拘束してもらおうとした。単鳳翔が長崎に来たとき、通訳の沈茂人は陳元贇を臨時通訳として単鳳翔に勧め、京都への交渉にも同行させた。
日本の浪人とは、主家や俸禄を失った武士を指す。幕府の統治の間、武士階級は国家の実質的な権力者となり、天皇はただ精神的指導者にすぎなかった。武士階級の最高指導者は将軍であった。各地の大名には家臣や武将がいて、家臣や武将は大名に従属して生活し、いったん主家が罪を受けたり、他の大名に併合されたりする状况に遭遇すると、武士は自分の領地と禄を失って、無職の浮浪者になった。これらの武士は頑丈で力強くて、多くの場合、社会の不安定な勢力になってしまう。彼らの中には、生計を立てるために、用心棒になったり、武師になったり、またある者は強盗になったりした。徳川幕府時代、浪人の問題が特に深刻であった。徳川家は大名の勢力を弱めるために、養子に土地を継がせないなど様々な口実を設けて大名の土地を没収した。徳川幕府の三代目将軍である徳川家光が亡くなったとき、日本には40万人以上の浪人がいた。(尹霞、2019)
単鳳翔が訪日した当時、日本は過酷な内戦を経験したばかりで、国内の浪人が急増していた。幕府は沿海の倭寇を取り締まる気がなく、単鳳翔の要請に応じることができなかった。単鳳翔は手柄もなく帰ってくるしかなかった。陳元贇は単鳳翔の臨時通訳に就任した時、京都に三ヶ月滞在していた。その間漢学者の戸田花屋、朱子学者の林羅山、石川丈山、松永尺五などと知り合い、お酒を飲んだり、詩を作ったりして、文友となった。
陳元贇は書道を教えたり、鍼灸を施して日本で生計を立てていたが、定職はなく、長崎、京都、荻津、江戸などを流浪していた。明代天啓六年(日本の寛永三年、1626)、陳元贇が日本に行って七年目、江戸城南の虎岳山の西久保国昌寺内に身を寄せていた。彼は中国の嵩山少林寺で少林武術を骨身を惜しまず学び、五拳百七十手に非常に精通しており、捕獲術や点穴術も習得していた。少林武術を寺内の僧侶に伝授し、当時3人の浪人もここに寄託し
才学富瞻、能文能武的陈云赟,移居日本长达五十二年,在武术、文学、书法、陶器、茶道和医学等诸多领域传播中国文化,日本学术界把陈元赟与藤原惺窝、林罗山、伊藤仁斋、朱舜水等人,共同尊为日本的“先哲”。(姚诚、沈国权,2011)朱舜水、戴曼公、隐元等人渡日的时间晚于陈云赟,但陈云赟的贡献鲜为人知。直到二十世纪八十年代,我国学者才开始关注陈云赟的研究。