日本书法的“黄檗流”与“东江流”
历史上,中国书法传入日本,主要经历了三次高峰:第一次是日本平安时代,随着大批遣唐使来到中国学习中国文化,同时,遣唐使也把两晋、隋唐以来的中国书法,作为中国文化的重要成果,带回了日本,并由此形成了“唐样”书法风格。这一时期的“唐样”书法,正是以“平安三笔”为典型代表——空海(774—835)、嵯峨天皇(786—842)、橘逸势(782—842)。此后至平安时代中期,也就是中国五代至北宋时期,随着日本自身文字假名的出现,日本书法史上又出现了以此为基础的新书法,被称为“和样”书法,其中最为重要的代表,无疑是所谓“平安三迹”的小野道风(894—966)、藤原佐理(944—998)、藤原行成(972—1028)等人。尤其是小野道风,不仅是日本书法史上的典范人物,对当时和此后的日本书法,都产生了深远影响,而且对明清以后的中国书法,都产生了重要影响。可以说,日本书法史上的“三笔”“三迹”,也正是中日书法交流、文化交流的产物和典型代表。(韩天雍,2018)
「黄檗三筆」をはじめとする黄檗僧侶と、渡日した明代文化遺民と文人の多くが、海外で明清文人士大夫文化、すなわち中華伝統文化の中核となる精神的資質を広めた。思想、学問、文学、芸術などの面において、近世の日本文化の発展と変容に重要で広い影響を及ぼし、日本の近代社会文化の変容と成熟を大いに促進した。明治維新以降、日本社会は発展し成熟し、その文化はまだ当時非常な苦難にあった中国の革命誌士の「救国」の参考になり、逆に中国の伝統文化の更生と発展を推進した。しかし、それが逆に中国伝統文化の改革と発展を促進した。要するに、黄檗文化は日本社会に深く根ざしており、中日文化交流の証と絆となっている。黄檗文化の文学芸術交流は、明清時代以来の中日文化交流の縮図であり、中日民間における継続的な相互学習、相互影響、相互参考の縮図である。
四、日本書道の「黄檗流」 と「東江流」
歴史上、中国書道が日本に伝わった最盛期が三度ある。1度目は日本の平安時代で、多くの遣唐使が中国文化を学びに来たと同時に、両晋隋唐以来の中国書道を中国文化の重要な部分として日本に持ち帰り、それによって「唐様」の書風を形成した。この時期の「唐様」書道は、「平安三筆」の空海(774—835)、嵯峨天皇(786—842)、橘逸勢(782—842)が代表である。それから平安時代中期まで、つまり中国五代から北宋時代にかけて、日本の仮名文字の出現に伴い、それに基づく新しい「和様」書道が日本書道の歴史に登場した。その中で最も重要な代表は、間違いなく「平安三跡」の小野道風(894—966)、藤原佐理(944—998)、藤原行成(972—1028)である。特に小野道風は、日本書道史の代表人物であるだけでなく、当時とその後の日本書道にも深い影響を与え、明清時代以降の中国書道にも重要な影響を及ぼした。日本書道史における「三笔」、「三迹」は、まさに中日書道交流と文化交流の産物であり代表であると言えよう。(韓天雍、2018)
中国の書道が日本へ伝わって2度目の文化芸術交流の最盛期は、黄檗文化生じた江戸時代だった。この時期の日本書道の発展は、主に明清時代に禅僧を代表とする明代遺民が渡日して大量の中国の物質文明と精神文化をもたらしたおかげと、徳川幕府が程朱理学を中心とした儒学思想文化を推賞して、中日文化の再度の深い交流を促進したおかげである。1度目の最盛期と同様に、この時期の書道の発展も、江戸時代前期の「黄檗三筆」と後期の「幕末三筆」を代表とした有名な「唐様」能書家が現れた。この時期の書道は、中国の書風を「唐様」と呼んでいたが、その内包を究めると、前の「唐様」は主に東晋と隋唐の書道であるが、江戸時代の「唐様」は、宋元の書道の影響を受けた明代後期の書道であろう。(馬亜楠、2017)
中国书法传入并引发文化艺术交流的第二次高潮,正是在黄檗文化所处的江户时期。这一时期的日本书法发展,主要得益于明清之际黄檗禅僧为代表的明遗民东渡,带去了大量中国物质文明和精神文化,同时也得益于德川幕府推崇程朱理学为中心的儒学思想文化,推动了中日文化的再次深度交流。与第一次高潮一样,这一时期的书法发展,也形成了江户时代前期的“黄檗三笔”和后期“幕末三笔”为代表的一批著名“唐样”书法家。这一时期的“唐样”书法,虽仍然用“唐样”来称呼中国书法风格,但究其内涵而言,前一时期的“唐样”,主要是东晋、隋唐书法,而江户时代的“唐样”,无疑主要是宋元书法影响下的明代后期书法样式。(马亚楠,2017)中日书法交流史上第三次高潮,出现在日本明治、大正时期,伴随着晚清民国著名学者杨守敬(1839—1915)携带一万三千多片汉唐时期的金石碑刻、书法字帖东渡日本,引发了日本书法艺术界人士对汉唐金石碑刻的学习临摹热潮,日本书法又一次从明代书风,重回隶书、魏碑的古朴苍劲,许多留日中国学者、文化巨匠,也受其影响,纷纷开始学习唐代字帖传统之外的大篆、隶书、魏碑等古代书法刻字,中日两国书法界都出现了一股新的“学古”“拟古”风尚,所谓“唐样”书法,其内涵也随之再次发生变化。
福清黄檗禅僧东渡日本之时以及之后,都带去了大量具有中国明代特色的物质文化成果,其中即包括宋明以来的书法、绘画藏品墨迹,可以说江户时代的日本万福寺,本身就是一座书画艺术的博物馆。同时以“黄檗三笔”为代表的大量禅僧书法创作,乃至黄檗禅门弟子独立性易等人的书法理论,也直接影响了此后很长一段时间内日本书法的发展,这些都推动了日本书法创作从晋唐书风向明清书风变革的发生。这一时期日本各界的书法艺术日臻完善、风格多样,这与隐元等人携带的书法名家作品以及禅僧自身创作影响,是密不可分的。
在隐元等明末遗民到来之前,日本江户时代初期,已经形成了本阿弥光悦(1558—1637)为代表的第一批文人书法家。和中国魏晋、隋唐时期相近,江户以前的日本书法家,多是皇室、贵族群体,很少有平民书法家闻名于世。到了德川幕府时代,新的不依附于皇室、贵族的知识阶层逐渐形成,专门从事文化教育研究的独立的文人群体开始出现,这一点也和中国南宋以来所谓“江湖散人”、元明时代极富个性的江南“文人”相映成趣。与贵族书法强调优雅高逸、庄重肃穆不同,文人书法更强调表现内心的独立个性和自由洒脱的精神。本阿弥光悦的书法,正是这类早期文人书法的一面旗帜。他的书法,虽然学习“平安三笔”,却没有贵族书法的典雅持重,而是或丰肥或纤瘦,变化万千,浓淡协调,自如飞动。正是在这样的时代背景下,同样具有文人特质的黄檗书法东传日本后,才产生了一拍即合的效果,迅速传播。
中日書道交流史上における3度目の最盛期は、日本の明治、大正期に現れた。清代後期から中華民国にかけて有名な学者楊守敬(1839—1915)が一万三千枚余りの漢唐時代の金石碑刻、書道模本を持って日本に渡り、日本書道芸術界の人々の漢唐金石碑刻に対する模写ブームを引き起こした。日本の書道は再び明代の書風から素朴で力強い隷書と魏碑に戻って、日本に滞在した中国学者や文化の巨匠もその影響を受けて、次々と唐代模本以外の大篆、隷書、魏碑などの古代の書道を習い始めてた。中日両国の書道界とも新しい「学古」「擬古」の風潮が現れ、いわゆる「唐様」書道も内包が再び変化した。
福清の黄檗僧侶が日本に渡った時とその後、中国明代の特色のある物質的、文化的成果を大量に持って行った。その中には宋明時代以来の書道、絵画集が含まれ、江戸時代の万福寺自体が書画芸術の博物館と言ってもよい。また、「黄檗三筆」に代表される多くの僧侶の書道作品、ひいては黄檗宗弟子の独立性易らの書道理論も、その後長い間日本の書道の発展に直接に影響していた。これは日本の書道創作を積極的に促進し、晋唐書風から明清書風への変革を推進した。この時期に日本各流派の書道芸術は日に日に完備し、書風が多様になったのは、隠元らがもたらした書家の作品や僧侶自身の創作の影響と切っても切り離せないものであった。
明代後期の隠元とその他の遺民が来る前、日本の江戸時代初期には、本阿弥光悦(1558—1637)を代表とした最初の文人書道家の集団が形成された。中国の魏晋、隋唐時代に近く、江戸以前の日本の書家は主に皇室、貴族出身であり、庶民出身の有名な書家はほとんどいなかった。徳川幕府時代になると、皇室や貴族にとらわれない新しい知識集団が形成され、文化教育研究を専門に携わる文人知識集団が現れ始めた。これにより中国南宋時代以来のいわゆる「江湖散人」、元明時代の個性に富んだ江南「文人」が引き立った。貴族の書道が優雅さと荘重さを強調するのに対し、文人の書道は内面の独立と自由と洒脱な精神を表現することを強調している。本阿弥光悦の書道は、初期の文人書道の旗印である。彼は「平安三筆」を習ったが、貴族の書道の優雅さと厳粛さはなく、線が太かったり細かったりと変化に富み、濃い墨と調和しており、躍動感がある。このような時代背景にあるからこそ、同じ文人の特質を持つ黄檗書道が日本に伝わるや、すぐに同調して急速に広まったのである。
江户时代的日本,从幕府、大名到知识阶层,从战国时代走来,面对长期的文化破坏,再次对中国文化、文人精神,产生了仰慕心态。以幕府为中心的当时上流社会中,体现出一股浓厚的追求高雅闲散趣味的文人趣味,注重文化生活的学问教养,对现实生活有更宽广、深厚的指导视野,追求一种天理秩序之下的儒雅人格和古朴苍劲的道德风范。(榊莫山、陈振濂,1985)
福清黄檗文化促进会供稿
(福清黄檗文化促進会提供)
江戸時代の日本は、幕府や大名から知識層まで全員戦国時代を経て、長期的な文化破壊に直面して、再び中国の文化と文人の精神に感心した。幕府を中心とした当時の上流社会では、上品で閑散とした趣を追求し、文化生活や学問教養を重視した。彼らは現実生活に対してより広く深い視野を持ち、天道と秩序の下で洗練された人格と素朴で力強い道徳的態度を追求した。(榊莫山、陳振濂、1985)
黄檗僧侶が蘇軾、黄庭堅、文徴明、祝允明、傅山らの作品を含めた文人と士大夫の気質に富んだ書画の名作を持って来たのもこの時期であった。日本の各分野の人々が宋元時代以来の新しい芸術の宝物を見ることができたのである。隠元と弟子らが普段創作した書画作品も、これらの名作品とともに崇拝され、中国式文人教養の精神的資源となっていた。僧侶たちが万福寺、崇福寺などで隠元、木庵、即非とその弟子らに古今書道作品を模写して学ぶほか、隠元の弟子たちと木庵、即非、独立、独湛、高泉などが、黄檗宗の各寺院の扁額、門柱や楯に様々な書道を残した。日本の書道界や普通の文人も次々とお寺に保存された宝物を見に行き、一時期、文人の優雅さと禅僧の風格が引き立ち、静かでのんびりした濃厚な文化の雰囲気を形成した。これによって、幕府将軍、大名たちが書画の宝物を収集し、模写し、鑑賞するのが一時流行り、それと共に明代文人の書道を核心とした風流な「黄檗流」が興った。(陳振濂、1991)
その影響で、この時期とそれ後の百年近くの間、悦山道宗、月潭道澄、池大雅、林道栄、深見玄岱、北島雪山などの有名な書家が生まれた。
也正是在这时候,黄檗禅僧带来了极富文人士大夫气质的书画名作,包括苏轼、黄庭坚、文徵明、祝允明、傅山等人的作品,使得日本各界人士得以亲见宋元以来新的艺术瑰宝。隐元师徒日常创作的书画作品,也随着这些宋明大家作品一起,成为追捧甚至膜拜的对象,构成中国式文人教养的精神资源。除在万福寺、崇福寺等地受戒于隐元、木庵、即非师徒的禅僧多学习临摹这些古今书法作品之外,隐元的众多弟子,木庵、即非、独立、独湛、高泉等人,在黄檗宗各寺院的匾额、门柱、牌榜上,无不留下了各体书法墨迹,日本书坛、普通文人也纷纷拜谒藏于寺中的文化瑰宝,一时间文人雅趣和禅僧风貌,相映成趣,构成了静穆闲适的浓厚文化氛围,影响所及,幕府将军、大名们收藏、临摹、鉴赏书画珍品,成为一时风气,共同构成了明代文人书法为核心内涵的风流雅韵——“黄檗流”。(陈振濂,1991)
这一时期及此后近百年间,产生了悦山道宗、月潭道澄、池大雅、林道荣、深见玄岱、北岛雪山等著名书法家。
林道荣是最后一代明朝遗民,出生于福清,却从小在日本长大,早期的书法主要深受江户时代前期日本“唐样”书法的影响,重视唐代书法的法度规矩,后随父定居于长崎,十六岁以后得到机会向刚东渡日本不久的隐元、即非两位禅师学习书法,二十二岁时书法技巧达到成熟,尤其擅长草书、篆书和隶书。受“三笔”影响,书法中又融合了宋代文人书法的特征,既有宋明书法的以意为主、自由洒脱,又有唐代书法的节制和法度。
释道宗(1629—1709),俗家姓孙,名定珠,字悦山,号髻辉,称悦山道宗禅师,泉州晋江人,清顺治十四年(1657)六月初一,应福济寺主蕴谦公邀请,东渡日本长崎,后即以木庵性瑫为师,参与发展管理黄檗禅寺,日本宝永二年,即清康熙四十四年(1705)二月受命继任为黄檗山第七代住持,同年十一月获赐紫衣,宝永六年,即康熙四十八年(1709),八十一岁高龄的道宗禅师圆寂于慈福院。
道宗禅师早年书法学习隐元禅师,东渡日本后,又向日本“平安三笔”“三迹”,特别是空海、小野道风以及师父木庵禅师学习书法,因此,道宗禅师的书法,兼具平安时代书法和“黄檗三笔”书法特征,用笔流美畅达,运笔自然如水,转折处不突然,字体粗细变幻不一,笔锋饱满浑厚,洒脱自如却不张扬,具有清雅流丽的风格,体现出禅僧书法家飘然高远的趣味。因为道宗的书法博采众家之长,在日本享有“书悦山”的美誉,常常被认为是“黄檗流”书法成就最高的一位。
高泉性潡行书,福清黄檗文化促进会供稿
高泉性潡行書 (福清黄檗文化促進会提供)
林道栄は最後の世代の明代遺民で、福清生まれで日本育ち。初期の書風は主に江戸時代前期の「唐様」の影響を深く受けて、唐代の書道の規則を重視していた。その後、父について長崎に定住し、16歳の時に日本に渡ったばかりの隠元と即非に書道を習う機会を得た。22歳の時、書道の技が成熟し、特に草書、篆書と隷書が得意だった。「三筆」の影響を受けて、宋代文人書道の特徴が吸収され、宋明書道の意を重視した自由と洒脱さを持ちながら、唐代書道の控え目で規則を守ることも取り入れている。
釈道宗(1629—1709)、俗姓孫、名定珠、字悦山、号髻輝、称悦山道宗禅師、泉州晋江出身。順治十四年(1657)旧暦六月一日、福済寺主蘊謙公の招きに応じて、日本長崎に行き、その後、木庵性瑫の弟子になり、黄檗寺の管理に参画した。日本宝永二年、清代康熙四十四年(1705)二月に黄檗山第七代住職を命じられ、同年十一月に紫衣を賜り、宝永六年、康熙四十八年(1709)八十一歳で慈福院にて円寂した。
林道荣草书禅诗轴,福清黄檗文化促进会供稿
林道栄草書禅詩掛け軸 (福清黄檗文化促進会提供)
除了“黄檗三笔”之外,日本“黄檗流”书法之中,还有与隐元禅师同时赴日的杭州籍黄檗僧独立性易不能不提。
独立性易年近六十才出家,取法号独立性易。性易禅师的先祖,是著名的东晋戴逵,《世说新语》记载有著名的王羲之儿子王徽之雪夜访戴的故事。戴逵经历西晋末年战乱,避祸到浙江,于是有了仁和戴氏。作为一代魏晋名士的后人,性易禅师早年一直对此津津乐道,也形成了超逸淡泊的性格特征。这几乎成了戴氏家族的一种文化基因,不论是性易的高祖戴彰、曾祖戴文奎,还是他的祖父戴德清、父亲戴均,都体现出一种向往隐居避世、追求艺术风雅的精神。
道宗禅師は幼い頃に隠元禅師に書道を学び、日本に渡った後、また日本の「平安三筆」「三跡」、特に空海、小野道風及び師匠の木庵禅師に書道を習った。そのため、道宗禅師の書道は、平安時代の書道と「黄檗三筆」の特徴を備え、筆致が美しくて水のように自然で、転折の部分が滑らかで、書体が太かったり細かったりして変化に富んでいる。筆鋒は充実していて濃厚で、洒脱で自由自在でありながら控え目で、上品で流暢な書風を持っており、禅僧書家の崇高な趣を体現している。道宗の書道が様々な流派の長所を生かしたため、日本では「書悦山」と評判が高く、「黄檗流」書道の最高レベルの達成者の一人だと言われている。
「黄檗三筆」のほか、日本の「黄檗流」書道の中には、隠元禅師と同時に日本に渡った杭州籍の黄檗僧の独立性易についても言及しないわけにはいかない。
独立性易は60歳近くで出家し、法名は独立性易である。性易禅師の先祖は東晋時代の有名な文人である戴逵で、『世説新語』には王羲之の息子である王徽之が雪の夜に戴逵を訪れる物語が記載されている。戴逵は西晋末年の戦争を経験し、浙江省に逃げ込み、それで仁和戴氏となった。魏晋有名学者の子孫として、性易禅師は昔からこれを得々として話し、これが彼の垢抜けた淡泊な性格を形成した。これはほとんど戴家の文化的遺伝子となり、性易の曾曾祖父の戴彰も、曽祖父の戴文奎も、祖父の戴徳清も、父の戴均も、いずれも俗世間を離れることにあこがれ、芸術的風雅を追求する精神を持っていた。
悦山道宗草书,福清黄檗文化促进会供稿
悦山道宗草書 (福清黄檗文化促進会提供)
性易的书法,东渡日本之前,不限于一种,对篆书、隶书、楷书、行书等各种书体,无一不精,楷书主要是受魏晋时期的钟繇、智永的影响,也体现出唐初虞世南书法的特点,端庄秀美,结构严谨不张扬,而且多用枯淡墨法,有古朴笨拙之气。
因此,作为晚明士人的性易,虽然仍然受到明代文人书法,特别是明代中期“吴门书派”代表人物王宠的影响,但无论是楷书还是草书,其书法都较少体现明清之际书法常有的个性创新、文人狂放的精神,而是融合了明代古拙尚奇与传统中圆润流畅的特征,形成自己独特的偏于唐代风格的书法样式。(温志拔,2021)
独立性易草书,福清黄檗文化促进会供稿
独立性易草書 (福清黄檗文化促進会提供)
性易の書道は、日本に渡る前は、一つの書体に限らず、篆書、隷書、楷書、行書などのいずれにも精通していた。楷書は主に魏晋時代の鐘繇や智永の影響を受けて、唐初虞世南の書道の特徴もある。凛とした美しく、構成が厳密で控え目で、その上枯れ墨を多く使って、素朴で不器用な雰囲気を醸し出している。
そのため、明代後期士人としての性易は、明代文人書道、特に明代中期の「呉門書派」代表者である王寵の影響を受けている。しかし、楷書にしても草書にしても、性易禅師の書道は明清の際によくある革新的で個性的で文人の勝手気ままな特徴はあまりなく、むしろ明代の古風で奇抜さと伝統的な円滑で流暢な特徴を吸収しており、唐代書風よりで独自の書風を形成した。(温志抜、2021)
性易禅師の書道は、性易禅師なりの独立した書道理論と創作実践を持ち、書風は美しくて気品があり、江戸時代の日本書道の発展に大きな影響を及ぼした。性易の書道は「黄檗流」に由来するが、習う師匠と書風の好みが違い、また黄檗書道と異なっている。彼の書風は数世代の日本の弟子によって広がり、江戸時代中期の沢田東江(1732—1796)に至り、やがて江戸書道の新しい流派「東江派」に別家した。
江戸時代の書道の初期は主に「黄檗流」を代表とした文人の書道が流行っていた。中期になると江戸書道界は伝統を重視する晋唐書風の流派ができ、それが「東江派」を形成した。沢田東江の弟子である橋圭橘によって編纂された『東江先生書話』では、「東江派」をまとめて整理し、江戸書道界の多様性と複雑性を示した。宋明理学と文人文化の影響が日増しに拡大していた時期に、唐代文化が日本文化に与える影響は依然として軽視できなかったことがわかる。
独立性易草书,福清黄檗文化促进会供稿
独立性易草書 (福清黄檗文化促進会提供)
性易禅师的书法,同出于“黄檗流”,最终由于其师承关系和风格喜好的不同,又不同于黄檗书法,特别是由于性易禅师有着自己独立自觉的书法理论和创作实践,书法更为清秀,也对江户时代日本书法发展形成了重要影响,经过几代日本弟子的传播发扬,到江户时代中期的泽田东江(1732—1796),最终又分流形成了江户书道新流派——“东江派”。
如果说江户时代的日本书法,前期主要是风行文人书法趣味,“黄檗流”是其中的典型代表,那么到了中期,江户书坛又逐渐重新分化形成了重视晋唐书法传统的一派,这就是“东江派”的形成,泽田东江的门人桥圭橘曾编录《东江先生书话》一书,对这一书道流派进行了梳理总结,展现了江户书坛的多样性和复杂性,可见在宋明理学和文人文化影响日益广泛的时期,唐代文化对日本文化的影响仍然不可小觑。
性易の弟子と孫弟子の中で、最も有名なのは高天漪、北島雪山、細井広沢などが挙げられる。隠元禅師の弟子であった林道栄が亡くなった後、日本書道界で最も有名なのは高天漪(深見玄岱)で、独歩天下と呼ばれていた。
長崎出身の中国系書家の深見玄岱(1649—1722)は、旧姓高、字子新、自号天漪。彼の祖父の高寿覚は、元福建漳州出身の商人で、明代万暦末年に日本の長崎に移住した。彼の父高大誦は幼い頃高寿覚について長崎に定住し、唐通事となり、苗字を深見に変えた。玄岱は長崎で生まれ、幼い頃から性易禅師に書道、篆刻と医術を学んだ。玄岱は日本延宝時代(1673—1680)に京都に行って霊元天皇に謁見し、健康維持について述べ、自分が書いた『養生編』を進上したことから、幕府から評価され儒官となった。彼の書道は隠元弟子の林道栄と並んで「黄檗二妙」と呼ばれていた(童家州、1990)性易の影響を受けて、玄岱は特に草書が得意で、繊細で秀麗で垢抜けており、性易禅師の真髄を深く得ている。(韋祖輝、2017)日本正徳末年(1716)、独立性易禅師がなくなった後、深見玄岱が江戸で徳川家光時期の重要家臣である松平信綱(1596—1662)を訪問した際、わざわざ性易師匠の書道、篆刻、医学的貢献について語った。松平信綱の資金援助を受けて、高天漪は武蔵平林寺に記念堂を建て、独立性易像を奉納し、尊重の意を表す記念の石碑を立てた。(木宮泰彦、陳捷、2015)
江戸中期のもう一人の書道家北島雪山(1636—1697)は、日本肥後州(現在の熊本県)出身で、日本の「近世唐式書道第一人者」と呼ばれていた。彼は最初は朱舜水、陳元贇の影響を受け、また明代の文徴明に学び、「黄檗三筆」と独立性易に出会ってからは、まず隠元と木庵の弟子になりって明代書道の文人の趣ある特徴を学び、それから独立性易に唐代書道を習った。北島は中国の歴代の書道をまとめて習うことで、やがて日本書道の大家になった。性易師匠のほか、北島に影響を与えたもう一人の中国の書家は、同じ杭州出身の兪立徳である。兪氏は明代の終焉の前後に中国と日本長崎を何度も往復し、長崎を訪れるたびに北島雪山の家に泊まっていた。二人は書道の技をお互いに磨き合って、兪立徳が文徴明の書道芸術を北島に教え、北島の書風の形成に重要な影響を与えた。晋唐、宋明の多くの書道の大家に習うチャンスに恵まれ、それぞれの長所を吸収したおかげで、北島の書道は大いに上達した。そして渡日遺民の書道に基づき、日本の書道芸術を大きく発展させた。彼の書道は、独立性易の誠実で落ち着いた自由と機敏さを持っている一方、明代書道の果敢と力強さもある。包括的でありながら独自の書風を持っている、というのが「東江派」書道の最大の特徴の一つと言ってもよい。
性易的弟子和再传弟子中,最为著名的包括高天漪、北岛雪山、细井广泽等。隐元禅师弟子林道荣亡故之后,日本书坛最为显赫的就是高天漪(深见玄岱),号称独步天下。
长崎华裔书法家深见玄岱(1649—1722),原姓高,字子新,自号天漪。他的祖父高寿觉,原是福建漳州商人,明朝万历末年曾寓居日本长崎,父亲高大诵幼年时随高寿觉定居长崎,成为唐通事,遂改姓深见。玄岱出生于长崎,自幼就拜性易禅师为师,学习书法、篆刻和医术。玄岱于日本延宝年间(1673—1680)曾前往京都,面见灵元天皇,回答有关养生之事,献上自己编写的《养生编》一文,因此受到幕府的肯定,列为儒官。他的书法与隐元弟子林道荣被并称为“黄檗二妙”。(童家州,1990)受到性易的影响,玄岱尤其擅长草书,细腻、潇洒、秀丽,深得性易禅师的真髓。(韦祖辉,2017)日本正德末年(1716),独立性易禅师去世后,深见玄岱到江户拜谒德川家光时期的重要家臣松平信纲(1596—1662)之际,特别谈起性易师傅的书法、篆刻以及医术贡献。在得到松平信纲的资金援助后,高天漪因此在武藏平林寺中建纪念堂,供奉独立性易塑像,又立碑刻石,表示尊重和纪念。(木宫泰彦、陈捷,2015)
另一位江户中期的书法家北岛雪山(1636—1697),日本肥后州(今熊本县)人,被称为日本“近世唐式书法第一人”,他的书法最早受到朱舜水、陈元赟的影响,又学习明代的文徵明,遇到“黄檗三笔”和独立性易禅师之后,先拜隐元、木庵为师,学习明代书法文人意趣,后又向独立性易学习唐代书法。综合中国历代书法,最终成为日本书法的一代大家。除了拜性易为师,影响北岛书法的另一位中国书法家,是同为杭州人的俞立德。俞氏在明朝灭亡前后曾多次往返于中国和日本长崎,每次游历长崎,都是客居北岛雪山家中,二人得以切磋书法技艺,俞立德便将文徵明的书法艺术传授给北岛,对后者的书法风格形成,产生了重要影响。正是受惠于晋唐、宋明众多书法大家,转益多师,博采众家之长,北岛的书法大为精进,在东渡遗民的基础上,极大发展了日本书法艺术。他的书法,一方面具有独立性易书法的敦厚沉稳、自由灵动,另一方面又有明人书法的果断刚劲力量。可以说,兼容并包、自成一脉,是“东江派”书法的最大特色之一。
平安時代の日本書道は王羲之、顔真卿を師とすることが多いとすれば、江戸時代の日本書道は文徴明を正統とし、古今両方の書道を取り入れていた。この点については,独立性易のもう一人の弟子である細井広沢の書法に反映されている。
細井広沢(1658—1735)、日本京都掛川城出身、本名藤原辻弁庵、号菊従、三十歳で細井知慎と改名し、字公瑾、号広沢。彼は独立性易に書道を習い、また北島雪山の弟子になり、「唐様」書道を学んだ。北島と同じように、細井は唐代の書道の規則を重視しながら、北島に倣って明代文徴明の書道を勉強した。書風は晋唐の書道帖学の厳しい規則に則っていながら、筆致が力强くて、伸びやかで俗離れしており、筆遣いと点画や墨遣いは文徴明に近い。(馬亜楠、2020)また、細井は黄檗禅僧らに、特に独立性易に篆刻を学び、彼の極意を得ている。
細井は北島雪山から正統書道の筆遣いの特徴と文徴明書道の神髄をしっかり習得し、二人の書道の物語も広く伝わった。ある時、北島雪山は僧侶のために『仏説阿弥陀経』を書き、途中で用事があって出かけなければならなくなったが、僧侶は待つことができず、細井に代わりに後半の内容を続けて書いてもらうことにした。そうすると、細井の筆跡が北島とまったく同じであり、前後の違いに見分けがつかないことに僧侶が気づいた。しばらくして北島が戻ったら、弟子である細井の書道が自分のと見分けられないことに気づき、「私はどうせ趙孟頫になることができないが、お前は少なくとも趙孟頫の息子の趙雍のレベルに達している」と感心して褒めたという。(韋祖輝、2017)
黄檗僧侶の独立性易から発展し、深見玄岱と父の二人と沢田東江親子を経て、更に北島雪山、細井広沢、荻生徂徠(1616—1728)がおり、細井門下はさらに弟子が多く、細井九皋、松下鳥石、三井親和、平林淳信など数多くの書家が出た。書道文化に基づき、宋明文人の書道を中心とする中国の書道文化は日本で開花し、明治維新以降まで影響を及ぼし、中日文化交流の重要な内容となっている。書道の創作は江戸時代全般の儒学の知識人、文化素養、文人趣味の基本要素となった。江戸幕末になると、「幕末三筆」の貫名海屋(1778—1863)、巻菱湖(1777—1843)、市河米庵(1779—1858)を代表とする書家が登場し、唐様書道が最盛期に達したことがわかる。明治期においても、西洋文化の普及により、文人画や南画は次第に衰えたが、書道芸術は依然として強い活力で生き残った。これは黄檗僧侶が展開した一連の文化交流活動のおかげだと言ってもいい。黄檗僧侶の渡日には、中国文化伝統を守ることと、文化の普及と発展という二つの使命があった。彼らは文化の使者として、中国文化を広めただけでなく、日本社会における新しい文化の創出も促進したのである。
如果说平安时期日本书法多以王羲之、颜真卿为师法,江户时期的日本书法,则普遍以文徵明为正宗,兼取古今书法。关于这一点,在独立性易另一弟子细井广泽的书法中,也有突出的体现。
细井广泽(1658—1735),日本京都挂川城人,本名藤原辻辨庵,号菊丛,三十岁改名细井知慎,字公瑾,号广泽。他在书法上学习独立性易,又拜北岛雪山为师,学习“唐样”书法,和北岛一样,细井既重视唐代书法的法度,又追随北岛,注重学习明代文徵明的书法,书法风格既具有晋唐书法帖学的严谨规矩,又有笔力遒劲、舒展飘逸的特点,在用笔、点画、墨法上,都与文徵明相近。(马亚楠,2020)此外,细井还曾向黄檗众禅僧,特别是独立性易学习篆刻,也深得其真传。
正是在北岛雪山那里,细井深入掌握了正统书法的笔法特点和文徵明的书法精髓,二人的书法故事也广为流传。据说有一次,北岛雪山为一位禅僧书写《佛说阿弥陀经》,刚写到一半,有事须出门,但是这位和尚不能稍待,便先请细井代为续写后半部分内容,结果那位僧人发现,细井所写部分,字迹笔法和北岛的竟然如出一辙,无法辨识前后的差别。不久北岛返归之后,也发现弟子书法可以乱自己之真,不禁感叹道:“我反正成不了赵孟頫,你已经至少达到赵孟頫之子赵雍的水平了呀!”(韦祖辉,2017)
从黄檗僧独立性易发展而来,经过深见玄岱父子,再传泽田东江父子,经过北岛雪山,而有细井广泽、荻生徂徕,细井门下更是弟子众多,包括细井九皋、松下鸟石、三井亲和、平林淳信等等。在黄檗书法文化的基础上,以宋明文人书法为中心的中国书法文化,在日本开枝散叶,影响远至明治维新以后,成为中日文化交流的重要内容。书法创作成为整个江户时代儒者知识阶层文化教养、文人趣味的基本元素,到了江户幕府末期,还出现了“幕末三笔”——贯名海屋(1778—1863)、卷菱湖(1777—1843)、市河米庵(1779—1858),标志着唐样书法达到鼎盛。即使到了明治时期,随着西方文化的广泛传入,文人画、南画逐渐失去其赖以生存的条件,书法艺术却仍然以强大的生命力,得以生存发展,这一切追根溯源,都可以认为是发端于黄檗禅僧所开展的一系列文化交流活动。黄檗禅僧的东渡,具有双重的使命,一方面是保存中华文化传统,另一方面是文化传播和发展,作为文化使者,他们不仅传播了中华文化,更推动日本社会创造了新的文化。
【注释】
[1]丛林:佛教名词,通常指禅宗寺院,亦称禅林,后世教、律等各宗寺院也有仿照禅林制度而称丛林的。