江南文人与书法
中国书法艺术,最早的源头,可以追溯到文字创造的初期,因为汉字是象形文字而不是记录读音的拼音文字,因此汉字书法从一开始就讲究形象美感。当然,作为艺术创作的书法创作,是从汉魏以后开始的。先秦两汉的大篆、隶书等字体书写,是实用性质的,主要是作为文明和思想的记录工具。到了东汉末年、魏晋时期,出现了一大批讲究书写美感的艺术家,开始进行追求形式美的书法艺术创作。他们认为书法是表现心灵和内心感受的艺术,透视中国古代书法的历史,我们可以看到一个明显的痕迹,那就是:越是忧患的时代,书法艺术越发达。许多艺术家认为,忧患的时代,产生忧患的心灵,忧患的心灵感受,常常催生出笔下生动丰厚的线条艺术。书法,就是忧患时代中的文人艺术家心底饱满感情在笔下的自然跃动,是个人与时代忧患意识的自然流露。越是忧患的时代,越是个体感性丰富的时代,也就越是艺术发达的时代,中国古代书法史,演绎出了这样一条特殊轨迹。人在艺术创作时,就把自己内心的忧患、思考刻进了艺术品,使艺术品注入了生命的溶液。这或许部分回答了为什么在改朝换代的时候,往往会出现一大批艺术家,而这或许也正是明清之际,黄檗文化、禅僧艺术十分发达,作品数量众多的深层原因吧?
明代中期文人与书法。明代中期,经济繁荣昌盛,手工业商业获得极大发展,繁荣都市不断出现,新兴的市民阶层积极参与到传统文化的相关活动中,特别是在文人集中的地区,书法艺术获得了长足的发展。正是在天时、地利、人和的条件下,江南地区涌现了一批名震古今的书法艺术名家,以至于在当时就有“天下书法归吾吴”之说,沈周、唐寅、陈道复、陆师道、周天球、王稚登,可谓群星璀璨,构成了书法史上的一大奇观,书法界呈现出有声有色的繁荣景象。在这些书法家中,最负盛名的,应该是“吴中三子”——祝允明、文徵明、王宠,他们的书法独具个性,影响力最大。(朱仁夫,1997)
祝允明(1460—1526),字希哲,号枝山,也就是我们熟知的所谓“江南四大才子”之一的祝枝山。祝允明的书法,主要是受他岳父李应祯和外祖徐有贞的影响,师法唐代张旭与怀素和尚的草书,以及欧阳询、颜真卿的楷书,既博采众长,又自成一家。祝允明的楷书,精美严谨之中又有奔放自由的力量。现存楷书作品数量较多,其中最重要的代表作是《赤壁二赋》《论书卷》《和陶渊明饮酒二十首》《春江花月夜卷》。祝允明的草书也独具特色,而且风格多变,主要可分为三大类:第一种风格是古朴淳厚,这类草书由章草发展变化而来,笔触迅疾流转中又有凝重规范的特征;第二种风格是流丽畅达,这类作品一方面体现出两晋时期草书的飘逸韵致,一方面又兼具宋人草书的遒逸意态,没有了楷书的章法严谨,更加具有自由畅达的文人气息;第三种风格是颠逸狂放,此类作品更加脱离楷书字体的规范约束,表现出一种更为狂放的艺术精神,字迹像狂舞龙蛇,运笔洒脱大胆,体现出一种强烈的情感宣泄,表达了反抗不合理社会的内心情感,是艺术家人生遭遇和时代的写照。
しい発想や相違点の追求により、この時期の画壇は、流派が林立し、異彩を放っていたと言えよう。たとえば、山水画の分野では、董其昌を代表とする「松江派」や藍瑛の「武林派」、項聖謨の「嘉興派」が登場した。技法の面では、異なる画家もそれぞれ特色とイノベーションがあり、例えば花鳥画の面では陳淳、徐渭らは水墨写意に重点を置き、人物画の面では呉彬、丁雲鵬、陳洪綬、崔子忠らが風変わりで奇妙な人物筆致で描くことが多く、曽鯨は西洋の絵画技法を吸収し独特の「墨骨法」を形成した。明代後期以降、この斬新さと不思議さを追求し、文人の批判的な精神や個性を表現することを強調する傾向は、清代初期まで続いた。
董其昌(1555—1636)字は玄宰,号は思白,香光居士,松江華亭(現在上海閔行区)出身。明代後期ないし古代にかけての絵画理論において有名な代表の一人で、南宗画の写意水墨画を核としたいわゆる「文人画」理論をまとめて提唱した。絵画は形や技にこだわりなく、芸術的創造において最も核心的なものは偶発的な悟りで、絵画は主に文人の人格の境界を表現するものだと強調する。創作の面では、董其昌は山水画が得意で、特に水墨山水が得意で、華やかで鮮やかな青緑山水をよく思っていなかった。理論にしても創作にしても、董其昌の芸術に対する追求は、禅宗の影響を受け、穏かで静かな画風である。これは明代後期の書画の全体的な気風であり、黄檗書画芸術を代表とした禅宗僧侶芸術の形成と発展に深く影響し、言い換えれば、後に現れた黄檗文化における芸術成果は、主に明代中期以降興った江南文人芸術から生まれたともいえよう。現存する絵画の代表作は『秋山図』『集古樹石画稿』などがある。(単国強、2004)
海運貿易の往来に伴い、明代遺民と黄檗僧侶は日本に中国の絵画を次々と紹介した。文人画の理念を規範とし、南宗画をはじめとする明清の絵画の様々な様式を取り入れ、日本は独自の画風の系譜である南画を発展させた。南宗画を「日本文人画」と呼ぶこともできる。(森正夫、2007)
江南文人と書道
中国の書道芸術の源は文字創造の初期にさかのぼることができる。漢字は、読み方を記録する拼音文字ではなく象形文字であるため、漢字書道は最初から形の美にこだわっている。もちろん、芸術創作としての書道創作は、漢魏以降から始まった。先秦両漢の大篆、隷書などの書体は、主に実用的で、文明と思想を記録するツールとして使われていた。東漢末年、魏晋の時期になると、美しく書くことにこだわる芸術家が多く現れ始め、形式美を追求する書道芸術の創作が始まった。彼らは書道が心を表現する芸術だと主張した。中国古代の書道の歴史を見れば、憂患の時代であればあるほど、書道芸術はより発達する、という明らかな痕跡を見ることができるだろう。憂患の時代は憂患の心を生み出し、憂患の心は常に筆の生き生きとした芸術的な線を生み出すと多くの芸術家は考えていたそうだ。書道は、憂患な時代の文人芸術家の心の底と筆の下の、感情と生命力に満ちた自然な躍動であり、個人が時代に対する憂患意識の自然な表現である。憂患な時代や、個人の豊かな感性が必要な時代ほど、芸術が発展していった時期があったため、中国古代書道史は、このような特殊な軌跡を描いて展開していった。人は芸術を創造する時、自分の心の中の憂患と考えを作品に注ぎ込む。これはなぜ時代が変わる度に芸術家が多く現れるのか、なぜ明清の交換期に黄檗文化や禅僧芸術が発達し、作品が多数出るかの答えを示しているのではないだろうか。
文徵明与祝允明、唐寅、徐祯卿同为“江南四大才子”,他在书法方面,最有代表性的是小楷。文徵明的小楷风格,在其一生中经历多次变化,大体上,早期小楷以劲健取胜,中期劲健中有舒缓,晚年则整体谨严而局部活泼。即使已经年近九十,文徵明写起小楷来,仍然手不颤抖,章法不乱,令人称奇,一时间成为书法界的美谈。他的小楷作品《金刚经卷》《千字文》等,堪称典范。此外,文徵明的行草,也令人称道,作品流传众多,影响深远。他的这些行草作品,既具备有技巧的精熟稳重,又具有高雅的风度和文士的典雅,体现出一种高人逸士的风姿绰约,令后世书法家叹为观止。
特别值得一提的是,晚年的文徵明弃官归田,思想上更接近佛教禅宗,最终弃儒出家,听讲佛经,并从中深有了悟,豁然开朗,书法创作也随之更添了寂静悠远的禅趣。或许正是因为文徵明书法多元融合的特征,以及他与禅宗文化与书法艺术互动的渊源关系,无论是后来的黄檗禅僧,还是受黄檗文化影响的日本书法家,都十分推崇文徵明书法。
另一位对黄檗禅僧书法影响较大的明代书法家,是同为苏州吴县人的王宠。王宠(1494—1533),字履仁、履吉,号雅宜山人。尽管王宠年少时才学过人,却命运多舛、屡试科考,最终也未能中得进士,并且年仅四十,就英年早逝。他和唐伯虎是儿女亲家,又与祝枝山、文徵明一样,擅长书法绘画,名震一时。书法方面,王宠擅长行草,作品往往外露锋芒,内藏筋骨,这是一种极难的艺术境界。不过,王宠最为著名的是小楷,有一种与众不同的风格:巧中见拙,看起来漫不经意,不修边幅,如山野高人,实际上却运用了字的形质和笔的使转的技巧,呈现了灵巧的一面。王宠虽然生命短暂,却留下了丰富的书法作品,如《辛巳书诗册》《石湖八绝句册》《古诗十九首卷》等。王宠的书法,对黄檗禅僧独立性易影响巨大,并借由独立禅师,长久地影响了日本书法发展,最终引发“东江流”书道的形成。
明代中期の文人と書道。明代中期、経済は繁栄し、手工業商業は極めて大きく発展し、都市が絶えず現れ、庶民たちは伝統文化の発展を推進し、特に文人が集まっている地域では、書道芸術は大きな発展を得た。まさに天時、地利、人和がそろい、江南地域には古今に名を馳せる能筆家たちが現れた。そのため当時から「天下書法帰吾呉」(天下の書道といえば吾呉だ)という説があり、沈周、唐寅、陳道復、陸師道、周天球、王稚登などたくさんの能筆家がきらきらと輝き、書道史上と書道界の繁栄の光景を呈していた。これらの書道家の中で、最も有名なのは「呉中三子」の祝允明、文徴明、王寵であり、彼らの書道は個性的で影響力が最も強かった。(朱仁夫、1997)
祝允明(1460—1526)、字は希哲、号は枝山、名をよく知られている「江南四大才子」の祝枝山である。祝允明の書道は、主に彼の義父であった李応禎と祖父の徐有貞の影響を受け、主に唐代の張旭と懐素の草書、および欧陽詢、顔真卿の楷書を学び、それぞれの長所を吸収しながら、自分の特色のある書風を作った。祝允明の小楷は謹直かつ古雅でありながら自由奔放さが感じ取れる。現存する楷書作品の数が多く、その中で最も重要な代表作は『赤壁二賦』『論書巻』『和陶淵明飲酒二十首』『春江花月夜巻』などである。祝允明の草書も独特の特色を持っており、その上、書風は多変し、主に3種類に分けることができる。まずは古風で素朴で、これらの草書は章草から発展し、筆の運びが急速に流転しながらも技法を重視する特徴がある。第二は流暢で滑らかな作品で、両晋時代の草書の飄逸な趣がある一方で、宋代の草書の優雅な雰囲気も持っており、楷書の厳しい技法はなく、より自由でスムーズな文人の特色を持っている。第三に、鋭く奔放で、これらの作品はさらに楷書の技法の制約から離れ、より狂放な芸術精神を表現し、筆の運びはまるで狂舞した竜蛇のように大胆で、強烈な感情と不合理な社会への反抗を表現し、まさにその時代と芸術家の不遇な人生を描写している。
明代晚期文人与书法。明末清初最大的矛盾就是民族矛盾,这一时期代表书法家有李贽、徐渭和黄道周等。他们放浪形骸,狂放不羁,愤世嫉俗,在书法创作中表现自己对自我内在生命力的不断认知,把艺术个性发展到极致。
徐渭(1521—1593),字文长,号天池山人,晚号青藤道士,浙江山阴人。他是明代后期著名的书法家、画家、文学家,他的书法,看起来潦草、慌乱,结构扭曲随意,整体风格大胆张扬,完全不是王羲之、颜真卿书法所具有的温文尔雅、严谨庄重,而是具有宋代文人书法之“尚意”,也就是更强调表现艺术家心中情绪,宋代艺术也在晚明再次成为学习效仿的对象。对模仿传统书法所形成的过分秀美、故作优雅的流俗的“美”加以否定,正是对命运不公的反抗,对颓废生活的控诉,此后这样风气影响逐渐扩大,越来越多的艺术家强调书画艺术对自我独立个性的表达。特别是明清之际改朝换代所造成的社会大动荡中,许多艺术家为了表达心中的愤懑、孤独,在人生经历上表现出超凡脱俗、孤傲凄清的姿态,在书法绘画上则是创新意识渐渐占据主流,表现出各种独具个性的艺术追求和艺术风格。
黄道周(1585—1646),福建漳州人,工书法,善绘画,诗文、隶草皆自成一家。黄道周既是明末著名忠臣,以身殉国,同时在书法方面,又是成就斐然的一名书法大家。黄道周的行草最有特点,运笔自如浑厚,刚劲有力,在吸收古人精华的同时注入自己强烈的情感,书法风格正体现出他为人的刚正不阿。例如他的立轴行草《途中见怀诗轴》,墨色饱满,有奋笔直下的力量,体现出一种孤臣义士的险峻倔强、方刚不俗。
黄道周的人格、诗文、书画深刻影响着黄檗僧侣的文学艺术创作。二者的书画艺术,实际上都与晚明书法绘画艺术中强调个性表达的主张密不可分,都是这时期文人文化的产物。
中国的书法艺术从隋唐开始,就传到了朝鲜、日本、东南亚,汉民族的特有艺术之树,在异国他乡生长得枝繁叶茂,这一方面说明了书法的民族性,另一方面说明了它的世界性。
江南的文化和文人创造了明代独有的文化形态,黄檗宗的僧侣自然都濡染着文化气息成长。黄檗文化之传入江户时代的日本,进而发扬光大,除了各种因缘际会与内外条件之外,最为重要的是,作为一种文化形态,她是中晚明以来精致的江南文人文化的产物,其所代表的是高度发达的中华文化正统的一部分,而非地方性的民俗文化,也不是民间的宗教文化,黄檗宗及其周围的文人学者,是作为中华文明对外交流的使者、中介,连接着中日两国的民族文化,具体而言,是将晚明时期业已发展成熟的文人文化,大量而集中地移入日本社会和文化母体之中,推动日本文化发展、文人艺术家群体的形成,进而成为造就日后江户时代自身灿烂缤纷的文化展演的最重要的动力之一。(廖肇亨,2007)
文徴明は祝允明、唐寅、徐禎卿と同じ「江南四大才子」と呼ばれるが、書道において最も代表的なのは小楷だ。文徴明の小楷の特徴は、彼の一生を通して何度も変化を見せた。早期の小楷は力強さが勝っており、中期では力強さがありながら穏やかさが見え、晩年は全体的に精謹だが趣があった。彼は90歳近くになった時、小楷を書いていても、手が震えず技法が乱れず、これが非常に不思議で、一時書道界の美談になった。彼の小楷作品の『金剛経巻』『千字文』などは模範とも言える。また、文徴明の行草も作品が多く、古来高く評価されており、後世への影響が強い。彼の行草作品は、技巧の精熟さと穏やかさがあるだけでなく、上品な風格と文士の典雅優美さを持っており、高貴な隠遁者の優雅さが感じられ、後世の書道家たちを驚愕させた。
特に特筆すべきのは、晩年の文徴明が退官し帰郷した頃には、考えが仏教禅宗に傾き、最終的に出家し、仏教の経典から悟りを得て、書道の創作もそれに伴いより静かで悠遠な禅の趣が増していった。文徴明の書道は禅宗文化や書道芸術の多元融合が特徴のためか、後の黄檗禅僧にしても、黄檗文化の影響を受けた日本の書道家にしても、文徴明の書道を高く評価している。
黄檗禅僧の書道に大きな影響を与えた明代のもう一人の書家は蘇州の呉県出身の王寵である。王寵(1494—1533)、字を履仁、履吉、号を雅宜山人とした。王寵は若い頃に天賦の才能に恵まれたが、不運にも何度も科挙試験を受けては失敗し、結局は進士に合格できず、40歳で若くして亡くなった。彼