日本名桥

日本名桥

长崎眼镜桥

长崎中岛川上有20座左右的古桥环列,彼此相距百米,又名“长崎石桥群”,其中最出名的便是眼镜桥,它与日本桥、锦带桥并称“日本三大名桥”。眼镜桥是1634年由黄檗僧人默子如定设计,长22米,宽3.65米,石制双孔拱桥,也是日本最古老的石制拱桥。两个半圆形拱门与河中的倒影形成两个圆圈,因外形颇似眼镜而得名。相比日本之前的桥梁,因融合了中国明代的桥梁技术,眼镜桥更加牢固,在400年历史中几乎没有受到太大的损害,甚至超越了一些混凝土桥梁,因而被指定为日本国家重要文化财产。日本的史书赞美它为“日本最古最有名的石拱桥之一”。据说墨子如定在建桥时藏了20颗心形的石头,如今还能找到不少。看到它们摸一摸就能得到幸福,因此它也是日本有名的恋爱圣地。

长崎眼镜桥,福清黄檗文化促进会供稿

眼鏡橋 長崎市 (福清黄檗文化促進会提供)

日本の名橋

長崎の眼鏡橋

長崎中島川に架ける20基ほどの古橋は約100メートルを隔てて並んでおり、「長崎石橋群」と呼ばれている。その中で最も有名なのは眼鏡橋で、日本橋、錦帯橋と並び日本三名橋に数えられる。寛永十一年(1634)に、黄檗僧の黙子如定が設計したこの眼鏡橋は、長さ22メートル、幅3.65メートル、石造二連アーチ橋であり、日本最古のアーチ式石橋として有名である。石橋と川面に映った影が、きれいな丸い二つの円を描き、まるで眼鏡のように見えることから、この名がついた。それまでの日本の橋に比べて、中国明代の石橋の架設技術を取り入れたため、一部のコンクリート橋よりも強固で、400年経っても流失することなく度重なる水害に耐えてきて、国の重要文化財に指定されている。日本の史書には「日本で最も古く、最も有名なアーチ式石橋の一つ」と称賛されている。黙子如定が橋を建てる時、ハート型の石を20個埋め込んだと言われ、今でもたくさん見つけられる。これに触ると幸せになれるというハートストーンがあるため、眼鏡橋は恋人の聖地としても人気がある。

眼镜桥旁的墨子如定雕像,福清黄檗文化促进会供稿

眼鏡橋のほとりにある墨子如定禅師像 (福清黄檗文化促進会提供)

除了眼镜桥外,长崎石桥群中大多是来自中国东渡的明朝遗民出资设计构筑的,他们也把明代的建筑艺术与技术带到了日本。这些石桥是中日两国人民友好交流的象征之一,可谓架设在中日两国之间的友好桥梁。

山口锦带桥

黄檗僧人建造的日本名桥,不仅有长崎的眼镜桥,还有山口县岩国市的锦带桥,也是黄檗僧人独立性易的杰作,号称日本第一桥。这是一座横跨于岩国锦川之上的五拱桥,由藩主吉川广嘉参照中国杭州西湖苏堤的虹桥建造而成,具有浓厚文化交流碰撞的色彩。五拱桥的建造,采用传统的木工工艺,全部采用包铁和插销固定,充分应用精巧的木工技术,绝不使用一根铁钉。大桥始建于1673年,修建过程中,多次被洪水冲垮,多次复建才得以完工。现存的五拱桥,是二十世纪五十年代以来,在原有结构基础上多次修复而成。桥身结构精巧,坚韧而强劲,犹如湖面上轻柔的波浪,舞动着典雅的韵律。

历史上的锦川,雨季时常河水高涨,水流湍急,造桥难度很大,也给当地民众生活带来诸多不便。负责造桥的吉川广嘉,长期体弱多病,黄檗独立性易禅师受邀为其诊治。吉川在独立处借阅《西湖游览志》一书时,正好见到书中西湖“苏堤”和虹桥的插图,一时间大受启发,当即决定仿照苏堤虹桥,建造锦川新桥。新桥因其景致如锦带,故而被美称为“锦带桥”。大桥两岸风光迷人,桥头一株樱花,树干粗大,传说是日本樱花的典型代表,樱花开放的季节,更是将五拱桥装点得如梦如幻。

如今,山口县岩国市与杭州市结成了友好城市,锦川锦带桥与西湖锦带桥结成了姊妹桥,成为中日友好交往的一段佳话。

总之,随着隐元禅师开创的黄檗宗不断发展,以及黄檗僧侣们接连东渡,中国文化源源不断输入日本,不仅影响了日本佛教的发展转型,也对日本社会文化产生了深远影响,发展出涉及生活方方面面的综合文化形态——“黄檗文化”。

眼鏡橋のほか、長崎の石橋の多くは中国から渡航してきた明の遺民が出資して架けたものである。また、明の建筑芸術と架設技術も彼らによって日本に伝えられてきた。これらの石橋は中日民間友好交流の象徴であり、両国間に架けられた友好の架け橋と言える。

山口県の錦帯橋

黄檗僧侶が建てた有名な橋は、長崎の眼鏡橋だけでなく、黄檗僧である独立性易から啓発を受け架設した山口県岩国市の錦帯橋も数えられ、日本一の橋と言われている。岩国錦川に架かっている五連のアーチ橋は、藩主吉川広嘉が中国杭州西湖蘇堤の虹橋を参考にして作られたもので、中国日本両文化の融合が顕著である。伝統的精巧な木工技術を十分に応用し、主要構造部は継手と仕口といった組木の技術によって、釘は一本も使われずに造られている。1673年に建設が始まり、建設中何度も洪水で押し流されたが、やっと竣工された。現在の錦帯橋は1950年代以降、既存の構造に基づいて何度も修復されたものである。橋の構造は精巧かつ強靭で、優雅なリズムで踊っている柔らかな波のようだ。

昔の錦川は、雨季になるとよく水位が上がり、水の流れが急になるため、橋造りが難しく、地元の人々の生活に生じた不便が多々あった。藩主の吉川広嘉は長期にわたって病弱で、黄檗僧の独立易禅師に診療してもらった。吉川は独立禅師の住所で『西湖遊覧誌』を読んで、西湖の「蘇堤」と虹橋のイラストを見て大いに啓発され、蘇堤虹橋に倣い錦川新橋を建てることにした。新橋は錦帯のように美しいことから、「錦帯橋」という美称を付けられた。両岸の風景もとても魅力的である。ほとりにある桜は幹が太く、正に日本の代表的な桜である。開花期になると美しく咲き乱れ、錦帯橋をより一段と美しく彩る。

山口锦带桥,福清黄檗文化促进会供稿

錦帯橋 山口県 (福清黄檗文化促進会提供)

現在、山口県岩国市と杭州市は友好都市提携を結び、錦川錦帯橋と西湖錦帯橋は姉妹橋として中日友好交流の美談となっている。

このように、隠元禅師を開祖とした黄檗宗のさらなる発展、また黄檗僧たちが次々に日本に渡来したことにより、中国文化は絶えず日本に伝わり、仏教だけでなく、社会文化にも多大な影響を与え、生活の各方面にわたる総合文化形態である「黄檗文化」を成した。