即非如一的爱国情怀

即非如一的爱国情怀

即非禅师是隐元禅师门下的三大弟子之一,他东渡日本后开创的黄檗宗广寿派,是黄檗宗下的第二大派系。即非如一秉承黄檗家法,也很擅长作诗文,留下的作品在他圆寂后,由弟子编成《即非禅师全录》一书。

に溶け込んでいき、故国の文化が新しい国に定着され、成長し、更に新しい文化を生み出していることを認めていることがわかる。故郷はよく夢の中に出てくるが、現実の中ではもう彼の望む方向ではなくなったとも言える。

木庵渡日前後の詩偈

木庵禅師は隠元禅師を受け継ぎ、特に詩に精通している。彼は詩歌と禅学の関係について、「詩即文字、文字顕真常、大哉止之義也」(『紫雲止草自序』)と述べている。「止」は霊明の澄んだ本体を指し、外部の刺激と混乱の変化に直面しても動じない集中力を意味している。木庵禅師は詩歌こそが真理を明らかにする重要な鍵だと主張し、詩歌は唯一の真理ではないが、真理に近づく最も重要な道であると主張した。

渡日前の作品。木庵禅師の詩歌の創作は日本への渡航を境に前期と後期に分けられる。前期の作品は中国の禅林の気風を受け継ぎ、自然の山や森でよく見られるものを主なテーマとし、世俗的な世界の煩わしさと欲望から離れたい願望を表現した。『山居十首』其の一に、「雲林深所野僧家、毳衲飽餐萬壑霞。竟日不知浮世態、長年只見落天花。一池秋水一池月、五畝籬笆五畝茶。這種生涯無限趣、如何分我復分他」という詩がある。詩の中の森の奥の野僧は木庵禅師自身であり、かすみ、落ちてくる花、秋の水、月、垣根、お茶、これらの自然からの素晴らしい贈りものは詩人に無限の楽しみをもたらし、個人はとっくに天地の間に溶け込み、それぞれ違いもない、という禅の悟りを得たことを綴っている。

また、「翠雲每日出山中、与鶴繞園無事翁。禅室從來塵不到、香臺岂是俗能同。此中坐臥花頻雨、物外逍遙骨露風。日用偶諧無別事、偏憐宇宙逐憨蒙」(『山居閑詠』)。この詩の中には、桃源郷が作られ、世俗的な騒ぎ喧噪がなく、のんきな翁が横になり、花が咲いたり落ちたりするのを見て、宇宙の本当の意味を悟っていることが書かれてある。

渡日後の作品。木庵禅師は44歳に日本に渡った後、視野と展望は昔とは大きく異なり、書いた風景のほとんどが日本に関連したものだった。日本の富士山については、木庵禅師は十数首の作品を後世に残している。例えば『富士山』、「通身雪玉削昆侖、格外文明獨個尊。四海人窺風下立、那知頂上有乾坤」。木庵禅師はこの詩を書いた時、富士山の盛大な景色を見たことは一度もない。彼は富士山が雪に覆われた山と想像し、富士山を日本に置き換え、日本文明の独自性を称賛した。三句目は各地方に敬意を表しており、四句目は富士山頂の景観が素晴らしいと耳にしたが、残念ながら自分で見たことがないと説明した。詩歌は日本に対する好奇心と敬意に満ちており、非常に謙虚である。(廖肇亨、2004)木庵禅師は55歳で富士山を見た後に、もう一つ『富士山』を作成した。「縱觀無有最高巔、大者不過小子拳。獨此一峰堪矚目、突撑東海欲連天。有時霧㪘開鬟鬢、頃刻風生接地煙。半吐半吞空裏走、巋巋凜若白頭仙」。富士山の頂上に積もる雪はまるで白頭の仙人のようで、宇宙の神聖な知恵に溢れ、静かに日本人を見守っていると書かれている。頂上の雪景色の変化を見つめながら、詩人は思わず独り聳え立つ富士山を称賛した。これも中国の禅師の伝統で、際立ったイメージを借りて自分の本音を託す。『詠富士山贈有馬左衛門佐居士』では、「長空澄碧杳風陰、崛起群峰峻莫禁。鶴翅難過孤頂上、雲飛不礙最高嵚。軒昂大座乾坤小、壁立巍嶷世界欽。富貴無驕何よ比、非增非減玉奇珍」と書かれている。富士山を借りて地位、人格の高尚さを表現し、結句の「非增非減玉奇珍」は仏教の真の意味である。富士山はまた衰えない仏性の具体的な比喩となり、これによって富士山は木庵禅師の心の中の禅法の宝物の一つとなった。富士山は仏教と禅法の光明と永遠、毅然と高邁を象徴し、人々から尊敬と称賛を受けているのである。

明清鼎革实录。即非如一渡日前,亲历明清鼎革。他的部分诗作,可以作为“天崩地解”大时代的注脚。崇祯十七年甲申(1644)三月十九,李自成的农民起义军攻入北京城,崇祯皇帝在景山(俗称“煤山”)自缢。数月之后,即非如一听闻此事,感慨万端,成诗数首,以记其事。如《甲申五月十三日书事》《哭崇祯帝》《年三月十九日,逆暴犯阙,崇祯帝投缳煤山,惟司礼大监王之心跟随,跪帝膝前,引带扼脰同死。数日后葬于田贵妃墓之斜。独襄城伯李国桢一人往送。国桢随自杀》等诗作,语意激切。综观此等诗作,英气勃勃,绝无丝毫“蔬笋气”,崇祯自缢一事对即非如一的震撼之大不难想见。今举一诗分析,如《崇祯帝殡于东华门侧,覆以蓬厂,莫有敢往哭者,惟二沙门在傍诵经长伴帝柩》:“举国皆悲痛,何人竭股肱?始终无象主,独许两闻僧。”崇祯帝殡于东华门,唯二沙门在旁诵经,举世滔滔,风节委蛇,反而是佛门中人挺身而出,这正是佛门阐发的“菩提心即忠义心”节义观。

即非如一在明朝灭亡前后创作的诗歌,多是用诗史的形式,记录战乱中百姓的悲痛。不过,即非当时正在福州雪峰山出家,对于北京的种种事件,肯定都是难民口口相传的,或者是他自己的想象。而相比较而言,《福州胡指挥闻大兵入城,肃衣冠,望东北,拜君亲,竟南面危坐,服毒自尽,身不倾斜,大兵见之,设祭罗拜而出》《福清林贡士存发殉节,问左右曰:此何处?答曰:先帝朝也。曰:宁死于朝,不死于市。有司义而许焉。端坐受钺。噫!林君与能原始及终,而得夫朝闻夕死之实,无愧于达儒者也。偈以奉輓》,这些诗作,就是他对福州城内发生的人间惨剧的忠实记录了,无疑可视为时代风云铭刻在他心中的真实感受和伤心记忆。(廖肇亨,2015)

眷念故土。明清鼎革时期的复杂情势,迫使即非如一不得不思考不同的人生抉择,最终,他选择追随老师隐元禅师的足迹,登舟远行,渡日弘法。明历三年(1657)二月东渡日本,即非如一居住在长崎崇福寺达六年之久,期间写了许多思念家乡的诗作。诸如:

云松万壑趣何奢,山构幽添一径斜。

不觉此身居外国,时随清梦返中华。

人生恰似枝头鹤,世态浑如镜里花。

渡日した祖師に対する礼賛。黄檗僧侶が日本に入ってから、歴史上中国から渡った先祖に親しみを覚えた。隠元禅師も木庵禅師もそうだった。例として、『訪招提寺鑑真律師古跡』に「八百年来定裏身、招提始祖別天津。清澂律範今何在、舍利粲然五彩新」という詩が残されている。八百年以来、仏法を中国から日本にもたらした高僧が絶えることなく、鑑真の精神と高節は舎利の輝きのように衰えることなく光っている。戒律はまさに仏法の根本であり、その勤勉な実践と高尚な人格は舎利の輝かしい光を生み出し、歴史に消えない姿を残したと書かれてある。もう一つの例は『建長寺蘭溪禅師古跡』に「日国又唐山、分身両所看。眼空傲世界、口海漲波瀾。鐮上成嘉會、鏡中露醜顏。休嫌多點検、尽把家私攤。」という詩がある。蘭渓禅師とは宋代の

白地犹怜开眼暗,棒头点月落家家。

(《杨启纶居士携诗见过次韵酬之》)

这是即非刚到长崎不久的一首作品,异国的风景别有一番情趣,见到家乡人后思乡情绪难掩,常常于梦中回到故土,想到人生漂泊,世态炎凉,唯有禅法方能缓解他的各种忧思。又如:

众壑松风酿早凉,嘉禾满野闹荷香。

正当击节歌无象,何事牵云写别章。

万里海天容我拙,无穷山水任君装。

送朋因起怀亲念,梦逐归帆到大唐。

(《送翁林居士回唐》)

这是一首朋友送别诗。异国风光再美,当送别朋友归唐时,诗人只能在梦中乘船同行,思乡之切可见。还有如《福唐林尚质居士惠荔枝》:“久不见乡果,谢君慰渴怀。谁知居异国,也有状元来。”来自福唐的朋友送来了家乡特产荔枝,诗人见“乡果”倍感亲切,慰藉了满心对故乡的渴望和怀念。

即非禅师的诗歌,在当时也产生了重要影响,引发了同时期留在长崎的华商、华侨和僧侣浓浓的乡愁。他们常常聚集在隐元的卧游居,形成文人文化浓厚的雅集,彼此写诗赠答、互相唱和,借此畅叙乡情。这次集会共有46人,一共创作了51首诗歌,最终被汇编成诗集,题为《同声草》。(平久保章,1993)这本诗集,可称得上是旅居长崎的明朝遗民共同乡愁的汇编。仅举其中一首郑溥元的和诗为例:“林间读偈语,寒拾是同流。道重龙降钵,机忘鹿共游。吐吞千顷碧,谈笑一天秋。故国归何日,依依巨岛洲。”这首诗代表当时文人群体思念故国的普遍情怀。(林观潮,2002)