佛门贡献

佛门贡献

隐元禅师出家后,努力践行所立誓言。为人方面讲求名实相符,做事方面追求全始而终。住持黄檗寺十七年间,他广泛阅读佛教经典,重建庙宇厅堂,广结善缘,让寺院焕然一新,门下僧众人才辈出。福清万福寺也逐渐成为东南沿海地区的重要佛教场所,隐元禅师个人声望也远播海内外。

募化参禅。1621年,隐元禅师出家第二年就领命四处募化,为修复祖庭筹集钱款。到浙江杭州时听说京城政变,化缘一事中止,暂住绍兴云门寺听湛然和尚讲《涅槃经》,并请教时仁禅师问题:“依照经书解释,偏离经书一字,就如同魔说,其中的道理我实在无法明白啊,请问如何解释呢?”时仁禅师回答说:“三十年后,我再告诉你吧!”(平久保章,1979)这样的回答似乎让隐元很是失望,这和尚真是欺人太甚,这么简单的问题,居然要等上三十年。于是决定不回黄檗山,继续参访名师解决疑惑。

1622年,隐元禅师来到浙江嘉兴兴善寺,寺主相邀为檀越诵经,圆满后隐元禅师计划离开,此时,寺主让他等拿到檀越做法事的费用再走,这也是为隐元禅师的出行做考虑,而隐元禅师答道:“出家人要行便行,岂能被些许利养系留。”遂告辞而去,寺主深为叹服。不要说是当时在明末清初生民涂炭的时期,纵使是现在,僧人中能对金钱丝毫不在意的人,也都能引起人们深深的敬佩。在接下去的参访过程中,隐元禅师听说天台山密云圆悟和尚是临济宗尊宿,前去拜谒。在金粟山广慧寺,两人经过一番禅宗式说偈棒喝问答后,互相折服,彼此交心。前后历经一年左右,隐元禅师渐渐悟道,常常彻夜静坐,胁不沾席。他常欢喜又平静地对禅友说道:“我初到金粟时,只是东林一凡夫俗子,今会道意,实为三生有幸,日夜间参究自己的本家事都来不及,哪有闲工夫再与人争长论短。”可知他在密云圆悟和尚的启发下,对佛理的思考深度大大增进,日夜思量,宵衣旰食,焚膏继晷,无暇交友闲谈,完全进入了一个闭关提升期。在金粟山跟随密云圆悟和尚修禅三年后,隐元禅师逐渐展露出他非凡的悟性,一时名闻金粟山。

林村にも慧遠のような高僧が出てこないのだろうか」と言った。皆はその気概に感服し、大いに賞賛した。隠元禅師は「わたしはここで髪を落とし修行をはじめたからには、法門を興隆しなければ、泥犂に陥よう」と誓いを立てた。泥犂とは、地獄の意味である。これにより、隠元禅師の仏門生活が本格的に始まった。

隠元禅師の功績

隠元禅師は出家後、立てた誓いを果たそうと努力した。名実ともに相応しいことを重んじ、初志貫徹を追求した。黄檗寺に住職を務めた十七年の間、仏教経典を多く読み、伽藍を再建し、善縁を広く結び、寺院を一新し、門下の僧侶を輩出した。これにより、福清萬福寺は東南沿海の重要な寺院となり、隠元禅師の名声も国内外に広がった。

募金と修行。1621年、隠元禅師は出家の翌年寺院修復のための資金を集めるよう命じられ、万福寺を出た。杭州に着いた時、都で政変があったと聞いて托鉢が中止になり、しばらく紹興市の雲門寺に泊まった。そこで湛然和尚の『涅槃経』の解釈を聴き、教えを学んだ。ある日、隠元禅師は時仁禅師に経を尋ねた。「経によって義を解するは三世仏の怨、経の一字を離れては魔説に如同すという。これはいかに解釈するのか」。(『普照国師年譜』)すべてが経書によって解釈すれば悟らず、すべてが経書から外れれば魔説になるというのだが、その理由は実にわからない。それに対し、時仁禅師は「三十年後に汝に話そう」と答えた。(『普照国師年譜』)このような簡単な経書の解釈を三十年も待たせるなど、隠元禅師はがっかりし、黄檗山に戻らず、ほかに師を尋ね、疑惑を解かそうと心に決めた。

1622年に隠元禅師は嘉興の興善寺に来て、檀越のために読経するよう住職から頼まれた。読経が終わり、再び旅に出ようとすると、住職から費用をもらってから行けと言われたが、隠元禅師は「出家者が決めたらすぐ行く、金に左右されるものではない」と断り興善寺を後にした、住職は大いに感心した。明末清の初め頃のように人々が困苦にあう時期でも、こんにちに至ってでも僧侶でお金を少しも気にしない者は、人々の敬服を引きつけることであろう。のちほど天台山通玄寺に密雲円悟禅師がおられると聞き、彼はすぐに赴いた。

隐元祖师源流图,福清黄檗文化促进会供稿

隠元祖師源流図 (福清黄檗文化促進会提供)

金粟山の広慧寺で、二人は棒喝禅の問答を行い、互いに感服して、心を打ち明けた。一年ほどを経て、隠元禅師は徐々に悟り、夜を徹して座り込み、横にならないことが多かった。彼はいつも歓喜しながらも平静に禅友に言った。「私は金粟に着いた時、東林の凡夫俗子(平凡で浅薄な人)にすぎなかったが、今は悟りを得て、実にこの上もない幸いである。毎日昼夜ともに修行しても間に合わないから、人と言い争う暇があるものか」と。密雲円悟の指導の下で、修行が大いに進み、昼夜を問わず修行して、交友をしたり雑談したりする暇なく、完全に閉じこもり、さらに上の境地に入ったことがわかった。金粟山で密雲円悟の元で3年間参禅すると、隠元禅師は次第に悟りを開き、金粟山で名が知られるようになった。

1629年、密雲円悟は黄檗山万福寺の元老と檀信から要請を受けて住職に任ぜられ、隠元も喜んで密雲禅師に従い、出家の場所として親しんでいる万福寺に帰った。その後、円悟の命で何度も漳州、潮州あたりに托鉢に出たが、身なりが乱れていたため、黄檗山の托鉢僧ではないと疑われた。1631年、隠元禅師は獅子岩寺の住職に招かれた。すぐのちに費隠通容禅師が円悟から萬福寺住職を継ぎ、隠元禅師を西堂に任じた。費隠通容禅師は数年前から隠元禅師の博学多才を高く評価し、彼を付法の唯一の人選と考えていた。その二、三ヶ月後、隠元禅師は獅子岩寺に戻り、隠棲、修行をし始めた。彼は七年前後黄檗山と獅子岩の間を往来し、続けて参禅し教えを究めた。1637年に、大衆の再三の懇請により黄檗山の住職となり、費隠通容禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32代目となった。この年十月一日、密雲円悟、費隠通容禅師、隠元禅師、三代同時に布教伝道をし、遠近の僧衆五百人余りが集まり、まさに法門の一大行事だったと言えよう。

黄檗復興。隠元禅師が住職に就任して最初に行ったのは、開山正幹、断際希運、嫩安、鴻休、月輪、大休など、歴代の黄檗祖師のために賛文を書くことで、祖師たちの功績を称えた。

次に、1637年12月、僧侶たちを率いて臥雲庵に万本の松の木を植え、「万松庵」と改称し、記念文を書いたことである。木を育てるには十年、人を育てるには百年と言われるように、こうすることによって山門に風致を添え、後世の人々の「道しるべ」ともなり、「臨済栽松」の趣旨にも合致している。

1629年,黄檗山万福寺的耆旧、檀信邀请密云圆悟和尚担任住持,万福寺是隐元禅师出家的地方,生活过的地方,当然更熟悉,于是隐元禅师欣然随从密云和尚回到了黄檗山万福寺。随后多次奉密云和尚之命赴漳州、潮州一带化缘,因衣衫不整被怀疑不是黄檗山派出的化缘僧。1631年,学理日益增进的隐元禅师受邀担任狮子岩寺的住持。过了没多久,密云圆悟和尚退位,费隐通容禅师继任,招请隐元禅师为西堂。费隐通容禅师在此前几年就已非常赏识隐元禅师的博学多才,早就把他作为法嗣的唯一人选。可是仅过了两三个月,隐元禅师便继续回到狮子岩寺隐居静修。后来经过大家的再三恳请,隐元禅师终于答应继任,1637年正式登上住持的法座,成为临济宗第三十二世传人。同年十月一日,密云圆悟和尚、费隐通容禅师、隐元禅师,三代同时开宗施教,远近僧众闻风而来,达五百余人,可谓法门盛事。

中兴黄檗。隐元禅师担任住持后的第一件事,就是为历代黄檗祖师撰写赞文,如开山正干、断际希运、嫩安、鸿休、月轮、大休,充分肯定祖师们的功绩。

第二件事,是于1637年腊月,率众于卧云庵种植松树万株,改名为“万松庵”,并且作文章纪念。有道是十年树木,百年树人,此举既为山门增添景观,又为后人树立榜样,更符合临济栽松之意旨。

第三件事,则是于1638年春天重修中天正圆祖塔,建梅福庵于旁,慨念他赴京请藏的艰辛。万历年间,中天正圆为了获得朝廷赐藏经,进京苦等八年没有结果,最后在京圆寂。后来他的两个弟子继承师父遗志,继续请藏六年,最终在叶向高的帮助下获得赐藏,极大提升了福清黄檗山的影响。中天师徒为了弘扬佛法,沐风栉雨,排除万难,这与儒家“知其不可而为之”有很大相似之处。时人对黄檗僧人虽饱经忧患却节操昂然的品格肃然起敬,无不为黄檗精神动容。

三つ目に、1638年春に中天正円の祖塔を改修し、梅福庵を傍らに建て、大蔵経要請のため上京した苦労を記した。萬歴年間正円禅師は神宗に蔵経を賜わるように奏請し、北京で八年待ったが、成し遂げずに亡くなった。その法孫の二人により遺志が継承され、万暦四十二年(一六一四)宰相葉向高の助けを得て、全蔵を手に入れ、黄檗山の影響力を大きく高めた。中天とその弟子たちは仏法の教えを伝えるために、風や雨にさらされ、万難を排さなければならず、儒家の「無理と知りながらも敢えてやる」という教えによく似ている。当時の人々は、心配事や苦しみがありながらも昂然とした黄檗僧の品格に粛々と敬意を表し、黄檗の精神に感動しない者はいなかった。

最後の一つは、黄檗伽藍の改修に着手したことであった。明の後期、何度も戦乱を経た黄檗山万福寺はかなり破損していた。しかし、困窮の境遇に直面しても隠元禅師は気を落とさなかった。仏に祈願すると、「鳳凰が涅槃し、火を浴びて生まれ変わる」と明示された。そこで禅師は弟子を率いて托鉢をし、飢えや寒さをしのぎ、苦労を重ねた。托鉢から帰ってくると、隠元禅師はすぐに寺の改修に着手し、大雄宝殿、法堂を再建し、蔵経閣を西廊の後ろに移し、明代の建築様式に則って鐘鼓楼、山門、雲厨、倉庫など各殿堂を新築した。彼は弟子を率いて山に登り、良質の木材を精選し、また泉州に行って名匠を招き、新しい建物の装飾や彫刻を作った。

そして、仏像の彫刻中に縁起の良い出来事があった。大雄宝殿の仏像は最後に細かい泥で磨いてから金箔を貼る工程になるが、しかしどこにも適当な泥を見つけることができなかった。隠元禅師と弟子たちは心配で落ち着いていられなく、未完成の仏像の前に立って祈願するほかなかった。翌日、暴風雨で寺の近くの川の水位が上がり、流れが変わるところには、五色に光り、しっとりとした土砂が現れてきた。隠元禅師ははっと悟り、これは仏様が送ってきた泥だとみんなに伝えたので、みんなは急いで泥を運び、仏像を粉飾した。終わるころに、その五色泥は消えてしまった。これは明らかに仏像のために出たもので、不思議な感応道交だと思われている。そのため、本堂の仏像が完成して開光した後、隠元禅師は『黄檗語録』二冊を編纂し、これらの出来事を記録して世に伝えた。

最后一件事是着手重兴黄檗殿宇。明朝后期,经过兵劫的黄檗山万福寺早已破损不堪,面对困厄之境,隐元禅师并没有泄气。他向佛祖祈请,佛祖明示:“凤凰涅槃,浴火重生。”于是,他亲自带领弟子四处化缘,忍饥受寒,历尽艰辛。化缘归来,隐元禅师即着手修寺,重建了大雄宝殿、法堂,又将藏经阁移到西廊后面,遵照典型的明代建筑风格,新建钟鼓楼、山门、云厨、库房等各类房舍场馆。他还带领弟子上山精选优质木材,对新建筑的装饰、雕塑,隐元禅师还亲自到泉州邀请名师来制作。

在佛像的雕塑过程中传说发生了一件祥瑞之事。大雄宝殿的佛像制作剩下最后一道工序,需要用细泥打磨后才可以贴金。可是师傅们到处都找不到合适的细泥。隐元禅师和众弟子也急得寝食难安,只好站在未完工的佛像前虔诚祈请。第二天,狂风暴雨大作,寺院周边溪水暴涨,但是在溪水湍流回转处,却出现了一片发着五色光芒的泥沙,用手一捏还细滑湿润。隐元禅师恍然大悟,和大家说,这就是佛祖显灵送来的五彩细泥啊!大家马不停蹄运泥粉饰佛像,等粉饰完毕,溪里的五彩泥沙也消失无踪了。众人都认为,这彩泥分明是为佛像而生,是神奇的感应事件。为此,大殿佛像装塑完工开光后,隐元禅师还刻印《黄檗语录》二册,专门记载这些遭遇以传世。

经过七年的努力,黄檗山万福寺又恢复了昔日的壮观。寺院修建后,隐元禅师又为奠立经济基础奔忙,他广置田园,将田园从原来的一百多亩扩至四百多亩。他还在寺院内大力开展接化僧侣活动,开讲佛经,设坛传戒,重修寺志,开刻语录。经过这一系列的举措,寺院临济之风大振,黄檗之道大兴,僧众从早期的三百多人发展到一千七百多人,黄檗山万福寺再次扬名于东南沿海。

隐元禅师在中兴黄檗的过程中树立了极高的声誉,各方禅衲、名人学士纷至沓来,拜师礼佛。从明崇祯十二年(1639)至清顺治二年(1645),隐元禅师受到全国各地寺院的邀请,先后十几次远行到浙江、福州、泉州、长乐等地弘法,所到之处无不受到隆重欢迎,这才有了后来日本佛界的再三邀请和他的东渡。

福清万福寺法堂旧迹,福清黄檗文化促进会供稿

再建前の法堂 福清市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)

七年間の努力を経て、黄檗山万福寺は以前の状態を取り戻し、鬱然たる一大叢林となった。その後、隠元禅師は経済基盤を築くため、寺産を増置して、元の田園を百畝から四百余畝までに大きくした。また四衆を接化する活動を盛んに行い、経典を講じ、戒壇を設けて授戒を行い、寺誌を再整備し、語録を出版した。この一連の措置により、臨済の禅風が大いに振るい、黄檗の仏道が盛んになり、僧侶の数は初期の300人あまりから1,700人以上に増加し、黄檗山万福寺は再び東南沿海に名を馳せた。

黄檗が中興した中、四方の禅僧や学士たちがひっきりなしにやってきて、名高い隠元禅師の門下に帰依、修行した。明代崇禎十二年(1639)から清順治二年(1645)まで、隠元禅師は全国各地の要請に応じて、十数回も浙江、福州、泉州、長楽などへ法を弘めていた。行く先々で盛大な歓迎を受け、やがて後の日本仏界の再三の招請にもつながった。

易代抗争。1644年,明崇祯帝自缢景山,明朝灭亡。也就在这一年,隐元禅师离开了黄檗山,前往浙江拜见费隐禅师。一路上,他深切感受到王朝大厦将倾的岁月里社会的混乱与悲惨。面对明朝灭亡,隐元禅师更是痛哭涕零。对于隐元禅师来说,无论出家与否,赤胆忠心、骨气凛然都是不可缺少的。

明亡后,反清复明的战事不断。1647年3月24日,清兵逼近福清,镇东、海口二城失陷,百姓数千人被无辜屠杀,尸横遍野。四月初,隐元禅师每天都在黄檗山万福寺法堂举行法会,为在抗清中英勇牺牲的福清义军将士和被残杀的平民百姓的亡灵超度。法会选择在天色未明之际举行,以避开清兵的注意和不必要的杀害。这样半秘密的法会举行了七七四十九天,但隐元禅师的悲愤心情依然难平。他对即非如一在内的几个高徒说:“一定要带好僧众,尽一切可能组织如常,不可因此懈怠,该做的事情不做,增加新的不安定情绪;不可助纣为虐,是说绝对不可帮助满夷屠杀祸害民众;也不可惹是生非,给满夷灭寺的借口,是说不可主动制造问题,招惹清兵,以免给寺庙带来灭顶之灾。”(平久保章,1979)

正在此时,海口望族谢名世登门恳求隐元禅师率众到海口举行水陆法会。隐元禅师心有忧虑,怕清兵阻挠。此时性格刚烈的即非如一站起来说:“满夷暴戾贯天,海口哀鸿遍野,凡我族类,无不痛心疾首,师父,若不及时施以佛法,安慰数万冤魂,于心不安。”即非如一之言代表了僧徒的心声,在哀鸿遍野的时刻,民众恐惧万分,尤其倚赖佛法的抚慰,祈望在佛法中寻求心灵的安顿,此时施以佛法正当时。同时,如一还表示,法会不涉及反清之举,清兵没有理由阻挠。在弟子们一番分析后,隐元禅师答应举行普度法会。作为寺庙住持,这是一个艰难的决定,若有意外发生,寺庙很可能面临灭顶之灾。隐元禅师做出这个英伟的决定,体现了他慈悲为上的心怀。6月19日,一切准备就绪后,隐元禅师穿上明朝廷所钦赐的袈裟,率领八十位僧徒,各自手捧《大藏经》,登上水陆法会道场,手执法器,敲击鱼鼓,齐声诵经,此番诵法,祈祷万众苍生平安健康,祈祷国家早日安定,祈祷社会生产恢复如常。参与者恭恭敬敬,聆听者无不感激涕零。

清王朝への抗争。1644年、明の崇禎帝は都の背後にある景山(万歳山)で首を吊って自害し、明は滅亡した。ちょうどこの年、隠元禅師は黄檗山を離れ、浙江省へ費隠禅師に会いに行った。道中、彼は社会の混乱と悲惨さを痛感し、明王朝の滅亡に悲しみ、号泣した。隠元禅師にとっては、出家するかしないかに関わりなく、忠誠心と凛とした気骨が欠かせないものであった。

明が滅んだ後、反清復明の戦いが絶えなかった。1647年3月24日、清の軍隊は福清に迫り、鎮東、海口の二城が陥落し、罪のない百姓数千人は虐殺され、死体が野原に横たわった。四月の初めから、隠元禅師は毎日黄檗山万福寺法堂で法会を行い、犠牲になった福清義軍の将士や虐殺された庶民の霊を済度する。清兵や更なる殺戮を避けるために、法会は夜明け前に密かに行われ、四十九日続いても、隠元禅師の悲憤は依然として収まらなかった。彼は即非如一などの僧徒たちにこう言った。「怠ってやるべきことをやらないと、不安定な情緒が高まるから、ぜひ皆をよく率いて、いつものようにしなさい。また、清軍を助けて民衆を害したりすることは絶対にしてはならない。しかも、自らいざこざを引き起こし、寺を滅ぼす口実を与えるようなことはしてはならない」(平久保章、1979)。

ちょうどその時、海口町の名族である謝名世がやってきて、隠元禅師に僧徒を率いて海口で水陸法会を行うよう懇願した。隠元禅師は清軍に邪魔されるのではないかと心配していたが、気性の激しい即非如一禅師は「清軍は暴虐無道で、海口の住みかを失った難民が野に満ちあふれる。直ちに法事を行い数万の怨霊を慰めないと、気がとがめる」と言った。即非禅師の話は僧徒たちの本音そのもので、戦乱で民衆の恐怖の気持ちが強まり、一層仏法に頼り心の落ち着きを求めるため、法事を行うには今がちょうどよい時期だ。また如一は、法会は反清の行為には関与しておらず、清軍が妨害する理由はないと述べている。弟子たちとよく相談した後、隠元禅師は普度法会を開くことを承諾した。それは住職としては難しい決断であり、不測の事態が生じたら、寺院の滅亡に至ることになる。隠元禅師の

福清海口瑞峰寺,于明清之际重修,林秋明摄

明末清初に再建された瑞峰寺 福清市海口鎮 (林秋明撮影)

自此后,隐元禅师清淡自守,每日率众挑柴于市出售以充日用,使山门得以平安无事。1652年,隐元禅师六十一岁,有一天,和众弟子一起开戒,当读到“开戒于洪武十年,善述于成祖昭世”一句的时候,突然伤感哭泣起来。大家都愕然不解,后来有人悄悄问其中的缘由,隐元说:“当我听到明太祖的年号时,心中真是难掩亡国之痛,所以涕泣不止。”(平久保章,1979)在隐元心中,明朝始终是他的身心依止,此刻不变,未来也不会变。或许,这就是他作为文化遗民的一种无形抗争吧?