隐元高徒与黄檗名僧

三、隐元高徒与黄檗名僧

清朝顺治十一年(日本永历八年,1654),63岁高龄的隐元禅师,率领30多名弟子东渡日本,海上颠簸了两周余,终于平安到达日本长崎。作为中日贸易枢纽的长崎港,当时聚集了大量华侨,形成了独特的唐人社会。江户幕府为抵制天主教的传教扩张,实施宗教寺请制度,规定普通民众必须作为檀徒(施主)归属某一寺院,作为非天主教徒的证明,这在相当程度上,等于扶持了本土佛教寺院的发展,为隐元在日本的立足,提供了良好的社会条件。

隐元隆琦东渡前后,临济宗的超元(1651年渡日)、曹洞宗的心越兴俦(1677年渡日)等禅僧也陆续东渡,为日本带来了风格迥异的明朝禅,给陷入停滞的日本禅宗注入新鲜的血液,而且对宗教之外的其他文化领域也产生了巨大的影响。在这些东渡僧众中,以隐元隆琦为代表的黄檗僧团可视为江户时代中日佛教交流的代表,隐元创立的日本黄檗宗,至今法脉流传,延绵不断。

ていて、その3人の浪人も陳元贇に師事した。三人は陳元贇の少林寺拳法と日本の柔術を融合させ、それぞれ一派となり、日本各地に広めた。国昌寺は当時の柔道学習の中心となっていた。『日本柔道史』との本では陳元贇は日本の柔道の創始者とされている。

1638年(明崇禎十一年、日寛永十五年)、陳元贇の運命が好転し始めた。詩友の尾張藩主の儒臣である武野安斎から尾張藩主徳川義直に推挙され、陳元贇を尾張藩主の儒官·医臣として名古屋に赴き、一定の職業と収入を得て、日本の中上層社会に身を置くようになった。当時、日本の多くの有名な人物がその名を慕ってやってきて、次々と陳元贇に師事し、書道や詩を学んでいた。陳元贇は安心して尾張藩府に奉仕し、妻を娶って子供を産み、日本に定住し、中日文化交流に大いに貢献した。

1659年、陳元贇は川澄文子の家で日本の日蓮宗の僧侶元政(1623—1668)と知り合った。二人の年齢は36歳の差があったが、たちまち旧知のように気が合い、忘年の交わりとなった。日本に長く住んでいた陳元贇は日本語が上手くなり、二人の交流に支障はなかった。二人は一緒に中国の古書を読んだり、詩や芸術を研究したり、袁宏道の性霊説を高く評価したりしていた。彼らは長い間互いに文章を贈り、これらの贈り文を集めて一つの文集——『元元唱和集』がなった。中には絶句、律詩、詞賦、散文など多くの文体が収録されている。これは日本初の中日詩人が共著した公安派詩文集だ。陳元贇はこれを利用して日本の文壇に「公安派文学」を広め、日本文学の革新を推進した。その後、山本北山らのような日本の学者は公安派文学の主張を理論的武器として、日本で文字の通俗化を主張した。また、「御庭焼」を主宰し、名古屋の名物となった様々な「元贇焼」という陶器を製作し、独自の「陳氏茶道」もブームを呼んだ。彼は朱舜水(1600—1682)、張振甫などと頻繁に連絡を取り合った。また、隠元禅師とも友人関係にあり、互いに重んじ合い、詩を贈っていた。また、日本の漢学者の鵜飼石斎と協力して30余りの中国典籍を仮名で訓点するなど、中国文化の日本への普及に大きな貢献をした。

才能と学問に富み,文武に優れている陳元贇は52年間日本に居住し、武術、文学、書道、陶器、茶道、医学など多くの分野で中国文化を広めてきた。日本の学界では、陳元贇は藤原惺窩、林羅山、伊藤仁斎、朱舜水とともに日本の「先哲」としてともに尊敬されている。(姚誠、沈国権、2011)朱舜水、戴曼公、隠元らの渡日は陳元贇より遅いが、陳元贇の貢献はあまり知られていない。20世紀80年代になって、中国の学者はやっと陳元贇についての研究に注目し始めた。

宇治市隐元禅师登岸地石碑,福清黄檗文化促进会供稿

隠元禅師登岸地記念碑 宇治市 (福清黄檗文化促進会提供)

三、隠元の高弟と黄檗の名僧

清朝順治十一年(日本永暦八年,1654)、63歳の隠元禅師は、30人余りの弟子を率いて日本に渡り、海上で2周間余り揺られ続け、ついに無事に日本の長崎に到着した。日中貿易の重要点としての長崎港には、当時中国華僑が多く集まり、独特の唐人社会をなしていた。江戸幕府はカトリックの布教拡大に抵抗するために、宗教寺院請制度を導入した。非カトリック教徒の証として、一般民衆が檀家として寺院に帰属することを義務付けることは、相当に本土の仏教寺院の発展を支え、隠元の日本における足場を整えるための社会的条件を満たしたことになった。

隠元隆琦が東に渡る前後、臨済宗の超元(1651年渡日)、曹洞宗の心越興致(1677年渡日)などの禅僧も続々と東に渡り、日本に風格の異なる明王朝の禅をもたらし、停滞した日本の禅仏教に新鮮な血を注いだだけでなく、宗教以外の文化分野にも大きな影響を与えた。これらの東渡僧の中で、隠元隆琦を代表とする黄檗僧団は江戸時代の日中仏教交流の代表と見なすことができ、隠元によって創始された日本の黄檗宗は、今でも法脈が伝わり、延々と続いている。

黄檗僧団は特殊な集団で、仏法を広めた僧であると同時に、明後期の文化を広め、新しい文化を創造した文化の使者でもあった。明と清の時代、福建省は南に位置するため、明代後期の多くの学者が集まる場所になった。彼らは旧朝を懐かしみ、南明朝廷に頼って反清復明の活働を行ったが、南明政権は一撃に堪えず、抗争に失敗した士人は清朝に頭を下げることに甘んじず、仏教に身を隠し、出家して僧になる人が多かった。隠元門下の弟子は多くは明清交替の前後に仏門に帰依し、その才能は並外れてすばらしかった。例えば、木庵性瑫、三山儒者欧全甫、法名独往性幽、海寧儒者姚興、法名独耀性日などである。彼らは晩明の遺民であり、文人秀士でもあった。これは黄檗僧団の特殊性を决定した。彼らは文化伝達の重要な責任を担い、異国にいながら亡国の傷と復国の熱望を抱いていた。このような深い感情は彼らの仏法発揚と文化伝承の情熱を大いに引き出した。

日本万福寺开山堂,福清黄檗文化促进会供稿

開山堂 日本万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)

黄檗二祖木庵禅師

1658年、隠元禅師は江戸に行って徳川家綱に拝謁し、幕府の護持を受け、京都宇治郡に万福寺を創建して黄檗宗を開き、日本の黄檗宗の開祖となった。1664年、隠元は隠居し、法嗣木庵性瑫を万福寺の住職に就かせた。木庵禅師は師の期待に応え、黄檗宗をより輝かせ、日本の黄檗宗の第2代祖師となった。

木庵性瑫(1611—1684)は俗姓呉で、泉州府晋江県(現在の福建省泉州市)に生まれた。4歳で母を、5歳で父を亡くし、幼い頃から祖母と一緒に暮らし、祖母との愛情が深かった。木庵は幼少時に賢く、仏縁があり、10歳の時に観音菩薩の法号を唱え、僧侶に倣って精進料理を食べた。幼い頃から生活の寂しさを感じていたのか、木庵は13歳で泉州開元寺の礼仏に行き、仏門に入るという考えが生まれた。19歳の時、開元寺の印明禅師のもとで剃髪し、法号は「木庵」だった。

木庵が出家した理由は、現実の苦難から逃れるためでも、身を守るためでもなく、仏法を発揚し、動乱の時代を生きた苦難の大衆を救うためだった。このような積極的で精進的な仏心により、彼は絶えず仏教の教養を高め、一代の高僧となった。木庵は枯れた木のような僧侶とは異なり、世を避けて塵を逃れることに反対し、儒教思想による禅の修行を主張し、高齢の祖母の世話を忘れず、あちこちで法を尋ねたものの、祖母が亡くなるまで何度も帰郷して孝行を尽くす一方で、経典の研究に没頭し、修行に励み、仏学の教養を高め続けた。

26歳になってから、木庵は名山を巡り、見聞を広めた。兵乱の危険を冒して江蘇省、浙江省に赴き、密雲円悟、費隠通容などの有名な禅師に拝謁した。明末の乱世では、国の運命に関心を持ち、俗世間から離れることはでき

黄檗僧团是个特殊的群体,他们既是传播佛法的僧人,也是传播明末文化并创造了新文化的文化使者。明清鼎革时期,福建因地处南方一隅而成为许多晚明士人的聚集地,他们眷恋旧朝,依附南明朝廷进行反清复明的活动,但南明政权不堪一击,抗争失败后的士人不甘心向清廷俯首称臣,避隐山门、出家为僧成为许多士人的人生选择。隐元门下弟子众多,很多是明亡前后皈依佛门,而且才华颖异,比如木庵性瑫、三山儒者欧全甫、法名独往性幽、海宁儒者姚兴、法名独耀性日等。他们既是晚明遗民,又是文人秀士,这决定了黄檗僧团的特殊性,他们当仁不让地担任起文化传播的重任,虽身处异国,却心怀亡国伤痛与复国热望,如此深沉的感情激发出他们弘扬佛法与传承文化的巨大热情。