定宗立派,赐封尊号
1661年新黄檗的开建,标志着“日本黄檗宗”正式成立。以隐元禅师为核心的临济宗黄檗派因为有黄檗山万福寺的固定道场,日渐发展,最终形成了与临济宗、曹洞宗鼎足而三的新兴宗派。
て、初代住職となった。
万福寺建設中、隠元は福建省南部出身の書道家、画家、彫刻家の範道生(1635—1670)に仏像作りを願った。その中の法堂は、幕府老中の酒井忠勝が死去直前に遺命を残し、多額の資金を寄付して建設したものである。酒井は隠元の確固たる支持者であり、帰依して「空印」の法名を贈られ、龍渓らの奔走に重要な役割を果たした。
黄檗派が幕府に公認されたことに関して、1663年正月、黄檗寺の開堂祝聖式に徳川家綱は自ら訪れ、寺地四百石を寄進した。これにより、中国臨済宗黄檗派は独立の宗派として幕府をはじめとする仏教宗派から正式に認められるようになった。(孫宝山、2016)1664年、73歳の隠元禅師は新寺の住持職を木庵に委託し、自身は松隠堂に隠居した。その後の五年の間に、寺院の主要な殿堂である天王殿、大雄宝殿、法堂などが相次いで完成した。天王殿、法堂などの主要な伽藍はいずれも西に面し、東西の一直線上に建ち並び、隠元禅師と渡来僧たちの懐郷の思いを慰めた。
宗派の開立と尊号の下賜
1661年に京都黄檗山萬福禅寺の創建は、正式に「日本黄檗宗」の成立を告げた。隠元禅師が開祖と尊ばれた臨済宗黄檗宗は、京都黄檗山萬福禅寺を本山とし、元来の曹洞宗、臨済宗の二派に加えて新たに黄檗宗の一派とな った。
新黄檗開山後も隠元禅師は弘法布教を行い、弟子を広く受け入れ、名声が大いに高まった。隠元と接触し、教化を受けた僧俗は数多く、文献中記録のある者だけでも千人以上に達し、一般庶民から皇室、幕府要人に至るまで各階層が含まれている。
後水尾天皇(1596—1680)は隠元禅師に深い関心を持ち、退位後は仏教の篤信者となり、禅師に法語を求めたり、各種の宝物を贈ったりした。その中で最も貴重なのは仏舎利と宝塔で、その後に舎利殿も建て贈った。また法皇は何度も万福寺に足を運び、隠元禅師と親交を結んだ。彼が隠元禅師に贈った綿織の観音仏像は貴重な証として現在もなお文華殿に保存されている。隠元禅師は1664年の隠居から1672年の示寂まで八年間にわたり、ゆったりした晩年生活を送り、伽藍のますますの完備と僧団の拡大を楽しく眺めていた。徳川幕府との良好な関係に加えて、隠元は皇族との親密な関係も積極的に維持していた。特に後水尾法皇などの皇族から崇信された。(林観潮、2013)
新黄檗开山之后,隐元禅师继续弘法布禅,广纳僧徒,声名远播四方。隐元在日本接触、教化了众多僧俗,文献中有名有姓者就多达千余人,从普通庶民到皇室、幕府,各阶层都有交往。
后水尾天皇(1596—1680)对隐元禅师产生了浓厚的兴趣,他退位后笃信佛教,向禅师求取法语,馈赠各类宝物,最殊胜的莫过于赐舍利五粒和金塔,后还赐金建了舍利殿。法皇还多次亲临寺院,与隐元禅师建立了深厚的佛门情谊,他馈赠隐元禅师的一帧棉织的观音佛像至今还保存在文华殿中,弥足珍贵。隐元禅师从1664年退居到1672年逝世的近十年间,晚年生活相对闲适自在,目睹着京都万福寺不断完备的庙宇、厅堂建设,僧众人数日益增多,心中应该是倍感欣慰的。除与德川幕府保持良好关系之外,隐元还积极与日本皇室保持亲密联系,特别是得到后水尾法皇等皇室成员的敬重和信仰。(林观潮,2013)
1671年,八十岁的隐元禅师深知时日无多,为了确保黄檗宗精神传统能长久传承,撰写《老人预嘱语》,将本派礼仪、戒律、传承、粮物等原则规范整理成文,次年,弟子木庵性瑫、高泉性潡将其编辑整理为《隐元和尚黄檗清规》,由隐元禅师撰序。这部清规的最终完成定本,标志着日本黄檗宗已经完满地建立完成。
1673年2月30日,隐元禅师病重,后水尾法皇派遣使者问候。在生命的最后一段时光里,禅师想起过往种种,感念至极,分别作偈赠福清黄檗山万福寺的僧众和檀越,又感谢后水尾法皇的洪恩和德川将军赠地的国恩。隐元禅师往生后,日本为了纪念他,把每年的4月3日定为“隐元日”。隐元禅师东渡日本弘法长达十九年九个月,为中日文化交流做出了卓著的贡献。
隐元禅师去世后,日本的黄檗宗在众弟子的努力下不断发展,到1748年新建寺院已经超过千余座,僧众人数有序增加,社会影响相应不断扩大。这些都得益于隐元留下的黄檗清规,以及历代万福寺住持的不懈努力。
获得日本历代皇室的封号对于在日本的中国僧人来说,是值得大书特书的伟大事迹。在隐元禅师弥留的前一天,即1673年4月2日,后水尾法皇特赐隐元禅师“大光普照国师”尊号。之后,对隐元禅师进行封号,成为日本皇室的一个惯例。天皇先后五次追封尊号,1722年3月隐元禅师逝世50周年,灵元天皇(1654—1732)追封他为“佛慈广鉴国师”;1772年3月隐元禅师逝世100周年,后桃园天皇(1758—1779)追封他为“径山首出国师”;1822年3月隐元禅师逝世150周年,光格上皇(1771—1840)追封他为“觉性圆明国师”;1917年3月隐元禅师逝世245周年,大正天皇追封他为“真空大师”;1972年3月隐元禅师逝世300周年,昭和天皇追封他为“华光大师”。从这些封号可以看出,隐元禅师不仅得到了德川幕府的大力扶持,也获得了日本皇室的尊崇,这为黄檗宗在日本的发展提供了良好的外部条件。日本令和四年,即公元2022年,2月25日,日本皇室为纪念隐元禅师圆寂350周年和中日两国邦交正常化50周年,第七次为其加封谥号严统大师,进一步显示出黄檗文化历久弥新的价值,这一文化也必将增强两国民间友好往来与交流互鉴。
1671年、80歳の隠元禅師は自ら体力が日に衰え、生きているのも長くないことを覚り、黄檗山の亀鑑とするために『老人預嘱語』を作った。黄檗宗の精神と伝統が長く伝承されるように、礼儀、戒律、伝承、食糧物などの原則と規範を整理した。翌年、弟子の木庵性瑫、高泉性潡がこれを『隠元和尚黄檗清規』として編集、整理し、隠元禅師が序文を撰した。黄檗清規の刊行は日本黄檗宗の開宗の完成を示している。
1673年2月30日、隠元禅師が重病になり、後の水尾法皇が使者を派遣して見舞った。人生の最期に、禅師は過去の人生を思い出し、感謝の念を抱き、古黄檗と諸護法者に遺語と詩偈を寄せた。後水尾法皇の厚恩と徳川将軍の寺地下賜の国恩に感謝するために、それぞれ謝偈を書いた。日本では隠元の記念に毎年の四月三日を「隠元の日」と定めた。隠元禅師は日本で十九年九ヶ月にもわたって法を弘め、中日文化交流に多大な貢献をした。
隠元禅師が逝去した後、弟子達は師の遺命を受け継ぎ、1748年に全国に末寺は一千寺を超え、僧侶の数が徐々に増加し、社会的影響力がますます拡大した。これは隠元が残した黄檗清規と、歴代の万福寺住職のたゆまぬ努力のおかげによるものである。
隠元禅師は日本皇室から諡号を賜ったことは中国人渡来僧にとって、特筆すべき偉大な事績である。示寂の前日である1673年四月二日、隠元禅師の功績を称え、後水尾法皇より隠元禅師に「大光普照国師」の号が特諡された。その後、五十年ごとの隠元の遠忌に、時の天皇より諡号を授けられることが慣例となった。今まで五回にわたって国師号·大師号が賜与されているが、それは以下の通りである。1722年3月、50年遠忌に、霊元天皇より「仏慈広鑑国師」、1772年3月、100年遠忌に、後桃園天皇より「径山首出国師」、1822年3月、150年遠忌に光格上皇より「覚性円明国師」、1917年3月、245年遠忌に、大正天皇より「真空大師」、1972年3月、300年遠忌に、昭和天皇より「華光大師」と追贈された。これらの諡号から、隠元禅師は徳川幕府だけでなく、日本皇室からも崇敬を得ており、黄檗宗の日本における発展のための外部条件となったことがわかる。中日国交正常化五十周年及び隠元禅師円寂350周年に際して、2022年2月25日、日本令和天皇は隠元禅師に「嚴統大師」との新しい諡号を賜わった。これは7回目の封号となり、これにより、両国の民間友好往来と交流をより一層緊密にしたに違いない。
京都万福寺真空塔,福清黄檗文化促进会供稿
真空塔 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
隐元第七次加赠封号,福清黄檗文化促进会供稿
隠元禅師に7回目の諡号 (福清黄檗文化促進会提供)
隠元禅師は一般庶民から皇室、幕府要人に至るまで大勢の人々を魅了し、黄檗宗の成立と発展を促進しただけではなく、中国文化を日本の社会生活の各方面に取り入れ、「黄檗文化」と呼ばれる新しい文化体系を成した。
四、日本の黄檗旧蹟
日本黄檗宗は、創宗から三百年以上にわたり、隠元禅師と諸弟子の思想
隐元禅师以他的人格魅力,获得了日本上下的尊崇,不仅促进了黄檗宗的成立和顺利发展,还把中国文化注入日本的社会生活各方面,从而形成了一种崭新的文化现象,我们称之为“黄檗文化”。