高泉性潡的异文化接触

高泉性潡的异文化接触

高泉性潡(1633—1695)是黄檗宗第五代住持,同样秉承黄檗家法,善作诗文,著作宏富。他曾说:“有诗意,便有禅机;有诗义,便有禅解。”概述了诗歌和禅法之间的关系,诗歌是有禅机有禅解的,他认为写诗便是参禅悟道。2014年,日本京都黄檗大本山万福寺黄檗文化研究所整理影印了高泉性潡的著作,编成《高泉全集》四册,由黄檗山万福寺文华殿发行。《高泉全集》第二册收录了他的诗文集七种共四十一卷,数量非常庞大。

高僧のことで、臨済禅法を日本に伝えた。詩の前半は蘭渓禅師を詠んだもので、木庵禅師自身の経験でもある。最後の2句には日本の過去の伝承を保持し、発展させる様子がまるで、土地を惜しまずに力を合わせて、地に種をまいて育て、その苗がすくすくと成長するようだと表現している。

即非如一の愛国心

即非禅師は隠元禅師の門下の三大弟子の一人で、日本に渡った後に創始した黄檗宗広壽派は黄檗宗の二番目に大きい宗派である。即非如一は黄檗の教えを継承し、詩の作成も得意で、作品は彼がなくなった後、弟子によって『即非禅師全録』という本に編集された。

明清鼎革実録。即非如一は日本へ渡る前、明清の鼎革を経験した。彼の詩の一部は、まさにその時代への解釈だったと言えよう。崇禎十七年甲申(1644)三月十九、李自成の農民蜂起軍が北京城に攻め込み、崇禎皇帝(1611—1644)が景山(又炭煤山と称じる)で首を吊って自殺した。数ヶ月後、即非如一がこのことを聞いて、感無量で詩を数首作った。『甲申五月十三日書事』『哭崇禎帝』『年三月十九日、逆暴犯闕、崇禎帝投繯景山、惟司礼大監王之心跟随、跪帝膝前、引帯扼脰同死。数日後葬於田貴妃墓之斜。獨襄城伯李国楨一人往送。国楨随自殺』など。これらの詩には、強く激しい感情が含まれている。これらの詩を総合的に見ると、英気が旺盛で、全く僧侶っぽくなく、そして崇禎帝の自殺による衝撃はかなり大きいことがわかる。ここで例を挙げて分析してみよう。『崇禎帝殯於東華門側、覆以蓬廠、莫有敢往哭者、惟二沙門在傍誦經長伴帝柩』:「挙国皆悲痛、何人竭股肱?始終無象主、独許両聞僧。」崇禎帝は東華門に葬られ、惟二沙門はそばで読経し、人がたくさんいる中、仏教を信仰する者達が勇敢に立ち向かう。これはまさに仏教の「菩提心即忠義心」の観念の表れである。

即非如一が明代の滅亡前後に創作された詩は、戦乱中の庶民の悲しみを詩史の形式で記録したものが多い。しかし、即非如一は当時、福州雪峰山で出家しており、北京で起きた様々な事件についての詩は、難民が口コミで伝えたものか、あるいは彼が自身で想像したものに違いない。それに比べて、『福州胡指揮聞大兵入城、粛衣冠、望東北、拜君親、竟南面危坐、服毒自尽、身不傾斜、大兵見之、設祭羅拜而出』『福清林貢士存発殉節、問左右曰:此何処?答曰:先帝朝也。曰:寧死於朝、不死於市。有司義而許焉。端坐受鉞。噫!林君与能原始及終、而得夫朝聞夕死之実、無愧於達儒者也。偈以奉輓』、これらの詩は、彼が福州で発生した人間の悲劇の忠実な記録であり、これは間違いなく彼の心に刻まれた時代の出来事に対する本当の気持ちと悲しい記憶だということがわかる。(廖肇亨、2015)

29岁的高泉性潡东渡日本以前,主要僻居在福清黄檗山万福寺,足迹大约也不出福建、浙江一带,所写的诗多与赠别有关,如《辞本师和尚之扶桑》《留别诸同参》《虎溪三笑》等。与其他黄檗禅僧的文学风格不同,高泉诗歌的基本情调,与其说是离情依依的惆怅,不如说是一种豪情壮志:“从此远游他国去,大扶师道赖昆仁”“身担大法志偏壮,杖策长途梦欲归”。从中似乎可见高泉对东渡是早有期待的。渡日后的高泉,也与其他黄檗僧人不同,他虽也有思乡作品,但归乡的念头似乎没有那么强烈。他在日本的各种见闻,大大开阔了他的视野。

日本风土游历。高泉性潡到了日本京都后,到处游历。对京都的奉佛风气印象深刻,如《雒京即景两首》:

列国吾游惯,雒城景莫同。

有河多愁石,无寺不闻钟。

帝阙云霞表,人家花木中。

大都皆尚佛,追及竺天风。

(其一)

楼台浮处处,弦管杂纷纷。

岳色晴方见,车声雨亦闻。

行人僧过半,周道寺平分。

分舍卫初无,都缘有圣君。

(其二)

雒城,这里是指日本京都。高泉在日本游历各地,觉得京都的景色与众不同,“楼台浮处处,弦管杂纷纷”,到处繁华优雅。“大都皆尚佛,追及竺天风”“行人僧过半,周道寺平分”,到处都是僧人、寺院,整体呈现出尚佛的风气。“都缘有圣君”,京都一片祥和安宁都是圣君治理有方,高泉对日本的政治管理表示高度赞赏。

故郷への思い。明清鼎革時期の複雑な情勢は、即非如一に人生の選択についてを考えることを余儀なくされ、最終的に先生である隠元禅師の足跡をたどり、舟に登って遠出し、渡日して仏法を伝えることを選んだ。彼は明暦三年(1657)2月に日本に渡り、長崎の崇福寺に6年も住んで、故郷を懐かしむ詩をたくさん書いた。例えば、

雲松萬壑趣何奢、山構幽添一徑斜。

不覚此身居外国、時随清夢返中華。

人生恰似枝頭鶴、世態渾如鏡裏花。

白地猶憐開眼暗、棒頭點月落家家。

(『楊啓綸居士携詩見過次韻酬之』)

これは、即非如一が長崎に到着したばかり作品で、異国の景色は独特な味わいがある。故郷の人たちに会いたい郷愁の念を隠すことができない。彷徨う人生と冷たい世界を考えながら、夢の中で故郷に帰ることが多く、さまざまな悩みを解決できるのは禅だけであると書かれある。もう一つの例を挙げると、

衆壑松風釀早涼、嘉禾満野鬧荷香。

正當擊節歌無象、何事牽雲写別章。

萬裏海天容我拙、無窮山水任君装。

送朋因起懷親念、夢逐帰帆到大唐。

(『送翁林居士回唐』)

これは友人との別れの詩である。異国の風景がどんなに美しくても、唐王朝に戻る友人を送り出す時、詩人は夢の中で船で同行するしかない。と故郷を懐かしむ切さが溢れた詩だ。また、『福唐林尚質居士惠荔枝』:「久不見郷果、謝君慰渴懷。誰知居異国、也有壮元来。」で、福唐からの友人が故郷の名物であるライチを持ってきてくれて、詩人は「郷果」を見て故郷への憧れと郷愁を和らげた。

参访奈良后,高泉对和谐的社会充满向往。他在《南都纪胜》一文中,描写了诗人在春天二月游览奈良的时候,看到政通人和,民丰物阜,鱼跃鹿追,人与动物和谐相处,仿佛置身尧舜时代。高泉不禁感叹,这不就是诗人心目中的理想社会吗?

在游历过程中,高泉还为日本的插花技艺所惊叹。如《赠攒花人》:“洛中见说善攒花,能使名人不敢夸。只为巧心兼妙手,别成春色富山家。”日本花道高手巧心妙手,与高泉平时取花供养有很大不同,高泉在诗注中还夸赞日本插花技艺的高超,完全是一件艺术品,只有在绘画艺术作品中才能见到。

温泉体验。高泉到达日本体验到了各种异文化,其中对温泉情有独钟,留下了很多题咏诗篇,他甚至还写了一部关于温泉的专著——《常喜山游览集》。高泉的温泉之乐不在泉,在乎温泉之道也。如:

觱沸出深井,入池涌暖波。

时时含瑞气,往往涤沉痾。

大抵无严冷,自然有太和。

要明妙触处,问取跋陀罗。

(《山代温泉》)

山代温泉至今仍然是日本金泽地方最负盛名的温泉街。温泉含瑞气,能洗涤身上沉积的毛病,实在是畅快。末尾提到的“跋陀罗”,意译为“觉贤”,是东晋时期前来中国的印度高僧,少林寺的首位住持,曾经和南朝高僧法显共同翻译了佛教戒律经典《摩诃僧祗律》,里面记载了一则比丘和国王洗浴温泉的故事,说王舍城有三种温泉,分别是王温泉、比丘温泉、象温泉,不同温泉对应不同身份,不能乱了规矩。可是有一天比丘们跑去王温泉泡浴,导致大王无法享用,臣子们表示不满,可是大王心胸宽厚,耐心等待,尽管最后没有洗成,却得到佛陀的赞许。高泉引用这样的故事大概是想传达泡温泉的乐趣吧。又如:

盈池竟日沸无休,多载沉疴一涤瘳。

即非禅師の詩歌は人々に重要な影響を及ぼし、当時長崎に滞在した華商、華僑、僧侶たちの郷愁を引き起こした。彼らはしばしば隠元の臥遊居に集まり、文人文化を持つ優雅な集会を開き、互いに詩を書いて贈り、そして歌い合い、故郷への思いを語っていた。この集会には46人が参加し、合計51の詩を創作し、そして『同声草』と題した詩集にまとめた。(久保平井、1993)この詩集は、長崎に住む明代の遺民の郷愁をまとめたものと言える。1つだけ鄭溥元の詩を例にとると、「林間読偈語、寒拾是同流。道重龍降鉢、機忘鹿共遊。吐吞千頃碧、談笑一天秋。故国帰何日、依依巨島洲。」という詩がある。この詩は当時の文人たちが故国を懐かしむ共通の気持ちを代表している。(林観潮、2002)

高泉性潡の異文化触れ合い

高泉性潡(1633—1695)は黄檗山万福寺の5代目住持である。彼も黄檗の法を嗣いで、詩文が得意で、作品をたくさん残した。彼はかつて詩歌と禅法の関係について、「有詩意、便有禅機;有詩義、便有禅解」と述べ、詩歌には禅機と禅解があり、詩歌を書くことは禅を参禅弁道だと彼は考えている。2014年、日本京都黄檗大本山万福寺にある黄檗文化研究所は高泉性潡の著作を整理し、『高泉全集』4冊を編成し、黄檗山万福寺文華殿によって発行された。『高泉全集』の2冊目には、彼の詩文集7種41巻が収録されており、作品数が非常に多い。

29歳の高泉性潡は渡日する前は、主に福清の黄檗山万福寺に住んでおり、足跡も福建、浙江辺りから出ておらず、書いた詩の多くは別れに関する詩である。例えば、『辞本師和尚之扶桑』『留別諸同参』『虎溪三笑』等がある。他の黄檗僧侶の文学スタイルと異なって、高泉の詩歌の基本的作風は別れの切なさ、憂鬱と言うより、豪気な気持ちと雄々しい志である。例を挙げる

自是愿王三昧水,莫疑不宜混常流。

佛有沤和世莫猜,此泉休问自何来。

实从悲愿海中出,普与群生浣病胎。

(《咏温泉》)

此处的温泉是日本兵库县的有马温泉,至今也是游人打卡胜地,历数百年而人气不衰。诗中把温泉比作“三昧水”,从悲愿海中出,有佛家的愿力,能洗垢去病。还有把温泉与药师佛信仰相结合的,如:

琉璃古佛降东方,向此空山示此汤。

涤尽沉痾兼益算,慈恩荡荡孰能量。

(《礼药师佛》)

我佛原来号愿王,分身在处作津梁。

都缘为濯群生垢,故向寒岩迸沸汤。

(《温泉寺礼药师佛》)

日本各地温泉都奉祀药师如来,能除病助解脱,这是中土没有的风俗。佛教本来对沐浴一事特别重视,高泉自然明白沐浴文化与佛教的密切关系,借由温泉的体验去体征心中的佛教真谛。总之,高泉不仅把温泉当作尘世间愉悦的享受,这也是他感悟天地真理和生命真相的关键。(廖肇亨,2017)