慈流东照与西来拜祖
二十世纪以来,中日之间的经贸往来频繁,日本方面对中国福清黄檗山万福寺的造访也没有间断过。1917年3月7日,大正天皇(1879—1926)赐予隐元禅师封号:真空大师。当时日本宫内省的公文如下:“大光普照、佛慈广鉴、径山首出、觉性圆明国师谥真空大师。大正六年三月七日。宫内大臣从二位勋一等男爵波多野敬直奉。”这个公文现在保存在日本京都黄檗山万福寺。3月10日,京都黄檗山万福寺派出专使福田荣一,前往中国福清黄檗山万福寺传达这个喜讯,记载在日本《禅宗》第264号文中。
1925年4月28日,京都黄檗山万福寺住持隆琦大雄,与黄檗僧人山田玉田、阪田金龙、安部禅梁等人到达福清黄檗山万福寺礼拜祖庭,5月2日离开。(林观潮,2018)因住持学真和尚外出募化,监院如莲和尚接待山田一行。在山期间,他们阅览了福清黄檗山万福寺保存的明朝大藏经,并受赠《黄檗山寺志》《修行集要》等。当时监院如莲和尚与山田玉田笔谈文书:“惟隐祖道场冷落,稽经三百余秋,适住持学真舍身诣北劝募,蒙宦豪善信乐助囊金,始建法堂,仍欲续迁大殿,冀后圣僧复生,祖室重光。奈浩费甚繁,致真年近古稀,不辞劳役,于桐月二十日领众诣莆田涵江三江口,乘轮舟入安南国,并诣新加坡各埠劝化,志望已复旧观。兹逢大和尚率诸上座旋山,称万幸。弟不揣冒昧,胆敢延诸上座卓锡檗山,同建祖庭,稽后圣人复至,长聆棒喝之声,续绍隆琦之志。惟眄慈诺,过现咸忻。专此拜启,惟忻西东不别。倘能梵刹聿新,是谓隆琦即世,寺名并列不朽耳。弟如莲九拜。”此文书记载在山田玉田著述的《支那祖迹巡拜记》中。大意是:隐元禅师东渡之后近三百年,黄檗山万福寺道场日渐冷落,住持历尽艰难募化资金,才使得法堂重建,但大殿耗资巨大,尚无能力重建。寺院派遣年近古稀的和尚前往新加坡募化,希望复兴万福寺。这时恰逢日本黄檗山万福寺大和尚带队前来拜访,我希望你们帮忙共建祖庭,延续隐元禅师的志愿,让东西两黄檗能并列不朽。1929年1月18日,日本真宗僧人常盘大定考察黄檗山万福寺,监院如莲和尚接待。常盘大定于所著《支那佛教史迹踏查记》中,描述了正在重建的大雄宝殿,并摄影。(常盘大定,1975)
宋代末から元代初めにかけて、黄檗山は壊滅的な破壊を受け、元代では全く復旧されることがなかった。明の末期になると、次第に盛んになった。明万暦四十二年(1614)、皇室が蔵経を福清黄檗山に授け、「万福禅寺」との寺名を下賜したことにより、黄檗山は高い政治的地位を得て、その後の隆盛の基礎が築かれることになった。崇禎三年(1630)、臨済宗第三十代の密雲円悟(1566—1642)が要請を受けて住持に任ぜられ、その後の福清黄檗山万福寺は臨済宗の流れに入り、宗派の系譜を持つ禅寺として新たな歴史をスタートさせた。密雲円悟の法嗣費隠通容、法孫隠元隆琦が相次いで住職となり、前後にも匹敵する盛況である。臨済宗風を説きながら、黄檗山の僧侶や外護は臨済義玄の師である希運禅師の源流を意識的に強調し、希運を法派の始祖として法系源流を確立し、黄檗山の明末禅林における独自の主体性を標榜 した。
清乾隆年間(1736—1795)になると、万福寺は衰退の趨勢にあり、寺僧の清馥は布施を募って修復した。清末民初、戦乱のために殿舎はほとんど破壊された。1928年には山崩れに見舞われ、寺院は大きな被害を受けた。
慈流東照と西来拝祖
20世紀以来、中日間の経済貿易往来は頻繁に行われている。日本から中国福清の黄檗山万福寺への訪問も途絶えることがなかった。1917年3月7日、大正天皇(1879—1926)が隠元禅師に真空大師という封号を授与した。当時の宮内省の公文は「大光普照、仏慈広鑑、径山首出、覚性円明国師諡真空大師。大正6年3月7日。宮内大臣従二位勲一等男爵波多野敬直奉。」である。この公文書は京都黄檗山万福寺に保管されている。3月10日、この吉報を伝えるために、京都黄檗山万福寺は専使福田栄一を派遣し、中国福清黄檗山万福寺に赴いた。このことは日本の『禅宗』第264号の文章に記載されている。
1925年4月28日、京都黄檗山万福禅寺で住職を務めていた隆琦大雄が、黄檗僧の山田玉田、阪田金龍、安部禅梁らと共に福清黄檗山万福寺に到着し、祖庭を参拝し、5月2日に帰途についた。(林観潮、2018)住職の学真和尚が化縁に出かけたため、監督院の如蓮和尚が山田一行を迎えた。在山期間中、福清黄檗山万福寺に保存されている明代の大蔵経を閲覧し、『黄檗山寺志』、『修行集要』なども贈られた。当時の監院如蓮和尚と山田玉田との筆談文書の内容は以下の通りである。「惟隱祖道場冷落,稽經三百餘秋,適住持學真捨身詣北勸募,蒙宦豪善信樂助囊金,始建法堂,仍欲續遷大殿,冀後聖僧複生,祖室重光。奈浩費甚繁,致真年近古稀,不辭勞役,於桐月二十日領眾詣莆田涵江三江口,乘輪舟入安南國,並詣新加坡各埠勸化,志望已複舊觀。茲逢大和尚率諸上座旋山,稱萬幸。弟不揣冒昧,膽敢延諸上座卓錫檗山,同建祖庭,稽後聖人複至,長聆棒喝之聲,續紹隆琦之志。惟眄慈諾,過現鹹忻。專此拜啟,惟忻西東不別。倘能梵刹聿新,是謂隆琦即世,寺名並列不朽耳。弟如蓮九拜。」この文書は山田玉田が著述した『支那祖蹟巡拝記』に記載されている。現代文に訳すと以下の通りである。「隠元禅師が日本に渡ってから三百年近く、黄檗山万福寺の道場は日々寂れており、住職が苦労して資金を募ったことで法堂は再建されましたが、本堂は莫大な費用が必要で、まだ再建することができていません。寺院は万福寺の復興を願い、古希に近づく和尚をシンガポールに募化に派遣しました。この時期、ちょうど日本の黄檗山万福寺の大和尚は僧侶一行を率いてここを訪れてきました。私はあなた方に隠元禅師の願いを引き継いで、東西両国の黄檗が共に不朽になるように、祖庭の建立にカをかして欲しい」という趣旨である。1929年1月18日、日本の真宗僧常盤大定は黄檗山万福寺を視察し、監院の如蓮和尚が接待を担当した。常盤大定が著した『支那仏教史跡踏査記』には再建中の大雄殿が描かれ、写真も掲載された。(常盤大定、1975)
隐元封号铜牌,福清黄檗文化促进会供稿
隠元禅師諡号 (福清黄檗文化促進会提供)
1972年、昭和天皇は隠元禅師に「華光大師」の封号を贈った。当時の日本宮内省の公文書は次のようになっている。「真空大師、加諡華光大師。昭和四十七年三月二十七日。宮内庁長官宇佐美毅奉。」今は東京府宇治の黄檗山万福寺に現存している。1979年、日本仏教黄檗宗友好訪中団が福清万福寺を初めて訪問したのち、両国間の民間往来はますます頻繁になった。1982年、中国国務院は福清黄檗山万福寺を中国漢伝仏教の重点寺院に指定した。翌年11月、日本臨済宗黄檗宗協会は福清黄檗山に記念碑を建て、「隠元禅師東渡日本弘法振錫之聖地」と刻んだ。
1972年,昭和天皇(1901—1989)赐封隐元禅师封号:华光大师。当时日本宫内省的公文如下:“真空大师,加谥华光大师。昭和四十七年三月二十七日。宫内厅长官宇佐美毅奉。”公文现存于京都黄檗山万福寺。1979年,日本佛教黄檗宗友好访华团首次到福清万福寺参访后,两国间的民间往来日益频繁。1982年,中国国务院将福清黄檗山万福寺列为全国汉传佛教重点寺院。随后的1983年,日本临济宗黄檗宗协会在福清黄檗山建立纪念碑,并刻字:“隐元禅师东渡日本弘法振锡之圣地”。
1992年6月,纪念隐元禅师诞辰四百周年法会在福清黄檗山万福寺举行。日本黄檗宗第四次友好访中团拜谒福清黄檗山万福寺,由日本黄檗宗管长奥田行朗率领,参加宗祖隐元禅师诞辰纪念活动。1993年11月,日本黄檗宗赠送隐元禅师木雕法像回福清黄檗山万福寺供奉,宗务总长内藤文雄率领第五次友好访中团一行约五十人亲自护送来到中国。1994年6月,内藤文雄再次率领第六次四十多人的友好访中团,前往福清黄檗山参加隐元纪念堂奠基典礼。隐元纪念堂由日本黄檗宗信徒山冈容治先生捐资,次年6月,内藤先生又亲率友好访中团一行五十多人前来参加隐元纪念堂的落成典礼。
1996年11月,旅日福建同乡会与京都福建同乡会共同捐资,在福清黄檗山万福寺门外梧瑞村建造梧瑞桥,同年旅日华侨捐建的法堂藏经阁竣工。1998年3月9日,日本黄檗宗管长林文照率第七次友好访中团一行四十九人,来福建福清参加法堂落成暨禅堂上梁庆典活动。同年11月18日,名誉团长林文照、日本黄檗宗新任总务总长赤松达明,再次率领第八次友好访中团一行八十多人,参加福清黄檗寺禅堂落成庆典,并参观了弥勒岩石佛。1999年6月,日本黄檗宗捐建的黄檗塔院竣工。1999年10月,为了弘扬中日两黄檗的友谊,福清黄檗山万福寺建立“日本黄檗宗捐资祖山功德记”石碑,记载了日本从1996年到1999年三年间捐资项目。1999年11月24日,由团长山本智丈率领的第九次友好访中团一行前来参加费隐亭暨黄檗塔院落成典礼,并举行拜塔仪式。同月,福清黄檗山万福寺建立“日本黄檗宗访问古黄檗祖山记”碑,记载了中日邦交正常化以来,日本黄檗宗组团访问佛教黄檗宗祖庭黄檗山万福寺的简要历史。
1992年6月、福清黄檗山万福寺で隠元禅師生誕400周年記念法会が行われた。日本黄檗宗第4回友好訪中団は福清黄檗山万福寺に参拝し、日本黄檗宗管長の奥田行朗が率いて宗祖隠元禅師の生誕記念行事に参加した。1993年11月、日本黄檗宗は隠元禅師の木彫り像を福清の黄檗山万福寺に寄贈して奉納した。内藤文雄宗務総長は第5回友好訪中団一行約50人を率いて護送した。1994年6月、内藤文雄を団長とする第6回友好訪問団一行40数名が福清黄檗山に隠元記念堂の定礎式に参加しに来た。記念堂は、日本黄檗宗信者である山岡容治から寄付されたものである。翌年6月、日本の内藤文雄宗務総長が友好訪中団一行50人余りを率いて隠元記念堂の落成式に参加した。
重建后的福建福清万福寺隐元纪念堂,福清黄檗文化促进会供稿
再建後の隠元記念堂 福清市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
2003年4月14日,为纪念中日邦交正常化三十周年,日本黄檗宗大本山京都黄檗山万福寺、东京福建同乡会、京都华侨总会等团体共同发起,捐赠京都黄檗山版600卷《大般若经》于福清黄檗山万福寺。2004年10月1日,“黄檗山万福寺法堂藏经阁建立纪念碑”建成,纪念旅日华侨的捐资义举。同日,日本黄檗宗大本山万福寺和旅日华侨建立“大般若经寄赠纪念碑”。2017年10月11日,中日黄檗文化交流大会在福州举办,由福建省与长崎县共同发起。
2017年中日黄檗文化交流大会,福清黄檗文化促进会供稿
2017年中日黄檗文化交流大会 (福清黄檗文化促進会提供)
1996年11月、旅日福建同郷会と京都福建同郷会と共同で出資し、福清黄檗山万福寺門外の梧瑞村の逕江の上に梧瑞橋を建て、同年、旅日華僑の寄付によって建てられた法堂蔵経閣が竣工した。1998年3月9日、林文照管長を団長とする第7回友好訪中団一行49人が、法堂落成および禅堂上棟式に参加した。11月18日、林文照管長を名誉団長とし、赤松達明総務総長を団長とする第8回友好訪中団80人余りが禅堂の落成式典に参加し、弥勒石仏座像を見学した。1999年6月、日本黄檗宗の寄進による黄檗塔院が竣工した。1999年10月、中日両黄檗の友誼を発揚するため、福清黄檗山万福寺に「日本黄檗宗寄進祖山功徳記」という石碑が建てられ、日本の1996年から1999年までの3年間の寄付プロジェクトが記載されている。1999年11月24日、山本智丈団長が率いる第9回中国友好訪問の一行は費隠亭及び黄檗塔院の落成式に参加し、拝塔式典を行った。同月、福清黄檗山万福寺に「黄檗宗訪問古黄檗祖山記」の碑が建てられ、中日国交正常化以来、日本黄檗宗が団体を組んで祖庭である万福寺を訪問した簡潔な歴史が記されている。
2003年4月14日、中日国交正常化30周年を記念するため、日本黄檗宗大本山である京都黄檗山万福寺、東京福建同郷会、京都華僑総会などの団体が発起し、京都黄檗山版600巻「大般若経」を福清黄檗山万福寺に寄贈した。2004年10月1日、旅日華僑の義挙を記念するための「黄檗山万福寺法堂蔵経閣建立記念碑」が完成された。同日、日本黄檗宗大本山万福寺と旅日華僑によって「大般若経寄贈記念碑」が建てられた。2017年10月11日、福建省と長崎県が共同で発起した中日黄檗文化交流大会が福州で開催された。
山川異域,風月同天(山河は異なろうとも風や月は同じ天の下にある)。中日両国の黄檗関係者の友好往来は、黄檗文化の発揚と黄檗祖庭の振興、中日友好事業の永続的な発展のために大きく貢献した。
山川异域,风月同天。中日两国黄檗人士的往来,为弘扬黄檗文化和振兴黄檗祖庭,促进中日友好事业永续发展做出了巨大贡献。