江南文人与佛教

江南文人与佛教

无论从哪个方面看,明朝都是一个矛盾并存体:经济发展与政治腐败共存,专制强化与个性解放同在。在文学方面同样也呈现出这种复杂性,儒道释三教思想交融在文人身上,呈现在不同样式的文学作品中。著名宗教学者赖永海认为:“儒学给中国佛学的,主要是心性、人性的思想内容,而佛学影响于儒学的,则主要是本体论的思维方式。”(赖永海,2017)

文人与僧侣之间的互动,在中国文化史上可谓源远流长、不绝如缕。以明代为例,从苏州的祝允明、文徵明,唐宋派的唐顺之,以及王世贞为首的“后七子”、公安派、竟陵派、虞山派,以及八大山人朱耷、石涛等,重要的艺术家、理论家几乎都与佛教或多或少有所交涉。明清时期的文人,深深浸润于儒道之间,在各方面都从佛教禅宗文化中汲取营养,获得思想启发。

南昌八大山人纪念馆,温志拔摄

八大山人記念館 南昌 (温志抜撮影)

発展が進んでおり、文人に堅実な物質的支援を提供し、緑豊かな山々と澄んだ水が文人に精神的ストレスを和らげる自然環境を提供した。江南文人は高度な教育を受けたエリートで、高い心性と突出した個性を持っている。江南の文人文化は儒教文化の影響を受けており、即ち「天下の興亡、匹夫に責あり」という責任意識と、国を憂い民を憂う感情に表れている。同時に、江南文人は明、清の時代交替の混乱に見舞われ、老荘哲学と仏教から精神的支えを見つけようと、文学と芸術等を通してストレス解消を求めた。江南文学、絵画と芸術の繁栄は、この地域の独特の社会的環境から来たのであろう。

江南文人と仏教

どちらの観点から見ても、明代は矛盾が大いに共存する時代であった。経済発展と政治腐敗が共存し、独裁的な強化と個性の解放が共存していた。また、文学においてもこの複雑さが示されていた。儒学、道教、仏教の思想は、文人に溶け込んでおり、さまざまなスタイルの文学作品に表れている。有名な宗教学者頼永海によると、「儒学が中国の仏教に与えるのは主に心性と人間性のイデオロギー的なものであり、仏教が儒学に与えるのは主に存在論の考え方である」とある。(頼永海、2017)

文人と僧侶の交流は、中国の文化史において長い歴史を持っていると言えよう。明代を例にとると、蘇州の祝允明と文徴明、唐宋派の唐順之、そして王世貞をはじめとした「後七子」、公安派、竟陵派、明末から清代初期の銭謙益をはじめとした虞山派、それに八大山人の朱耷、石濤等が率いる多くの重要な芸術家や理論家は、多かれ少なかれ仏教の影響を受けている。明清時代の文人は儒学と道教に深く没頭し、各方面において仏教文化から栄養と啓発を摂取していた。

銭謙益(1582—1664)、江蘇省常熟市出身、知識が豊富で、文界の指導者であり、東林党の指導者でもある。明清時代において詩と詩の変容において重要な役割を果たしていた。彼の周りには多くの仏教徒が集まり、彼は居士仏教における呉中(現在の蘇州市あたり)の指導者であった。更に、彼は明代後期四大僧侶である蓮池祩宏、紫柏真可、憨山徳清、藕益智旭とその弟子、及び華厳宗、天台宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗等の様々な宗派の僧侶とは非常に密接な関係を持っていた。銭謙益の文学的思想は仏教の影響を強く受けており、理論上では生まれつきの「霊心」を中心に据え、詩や散文の創作において生まれつきの才能が決定的な役割を果たすことを強調し、生まれつきの「霊心」と運、学問等の後天的教養のバランスをとろうとし、彼独自の健全な詩的理論システムを構築した。彼は詩の中で多くの仏教の比喩を借りて婉曲的に見解を表現しようとした。たとえば、『鼓吹新編序』の記事では『大般涅槃経』の「牛乳」に関連するメタファーが3つ連続して使用され、詩のメタファーとして「牛乳」、詩人のメタファーとして「牧牛の少女」が使用されており、中国歴代の詩歌が衰退するプロセスを牛乳に水を差すことに例え、「前七子」と「後七子」の詩に対し妙趣のある批判をした。さらに、銭謙益は詩の創作に関して、仏教をほのめかす方法で感情を表現し、仏教の原則を解釈した。それは、宗教的経験を表現することに焦点を当てた詩僧の作品とは大きく異なる。たとえば、『芥閣詩』の“一粒須弥応着眼,百城煙水好維舟”は、『華厳経』の中の善財童子が百の都市で多大の苦難を経験しても後悔することなく、南に行って禅を探し求めた話を用いたのである。

钱谦益(1582—1664),江苏常熟人,学识丰厚,既是文坛盟主又是东林党魁,在明清诗文转变过程中起着关键性的作用。他身边集结了大批奉佛文士,是居士佛教的吴中领袖。另外,他与晚明四大高僧——莲池祩宏、紫柏真可、憨山德清、藕益智旭及其弟子,以及佛教禅宗主要门派包括华严宗、天台宗、净土宗、临济宗、曹洞宗等宗派僧人,都有十分密切的关系。钱谦益的文学思想深受佛教影响,在理论上主张以抒写人的先天“灵心”为中心,强调先天禀赋对诗文创作的决定性作用,力图平衡先天“灵心”与世运、学问等后天修养功夫之间的矛盾,构建了自己完整的诗论体系。他在诗论中大量借用佛教譬喻,委婉表达出自己的观点。如在《鼓吹新编序》一文中连用了三个来自《大般涅槃经》“牛乳”有关的譬喻,以“乳”喻诗,以“牧牛女”喻诗人,评论中国历代诗歌的发展就像从《诗经》的有乳味发展到明代无乳味的过程,借以抨击前后七子的诗文,行文妙趣横生。另外,表现在诗歌创作方面,钱谦益大量化用佛教典故,抒写个人情思,阐释佛教义理,与重在抒写宗教体验的诗僧作品有明显差异。如《芥阁诗》“一粒须弥应着眼,百城烟水好维舟”,讲的就是《华严经》中善财童子南行求法,历尽百城烟水艰辛而无悔的事件。

晚明金陵吴越间,僧人也多称诗人,丛林论诗成为社会风气[1]。僧人如果不会诗歌创作,则会被认为不够清逸;士大夫如果不与僧人交游,则会被认为不够风雅。所以说,士大夫喜欢与僧人结交,以成就其风雅,而僧人创作诗歌获取士大夫认同,以成就其影响力。僧侣士人的互动不仅止于切磋文字诗法,也是一种社会活动。事实上,明代僧人雪浪洪恩对诗歌的社会功能有清楚的认识,他把诗歌作为一种“方便法门”,即与士大夫沟通的重要工具。晚明诗僧的诗作获得广泛的肯定与流传,诗僧社会地位也大幅提高。如黄檗宗隐元禅师就以其富有禅意的诗歌为他高僧地位的提升增加了筹码。

历史上著名的诗僧,其佛学造诣自然未必皆高,而“高僧往往能诗”也绝非常态,这恐怕是晚明之后才成为风尚所趋。综观晚明以来诗僧留下的作品,便可轻易感受到明末清初文化潮流的一些面向。例如,当时诗僧与文人在“诗、书、画”结合的倾向上毫无差别,明末清初的高僧也对当时流行的戏曲,给予高度的关注。由于尊宿名贤的提倡、诗僧社会地位的提高、文士与丛林密切的交流、丛林对文字经典态度的转变等因素的配合,促成诗僧大量的出现,形成当时文坛的一种特殊景观。

明代後期、金陵と呉越の地では、僧侶は詩人とも呼ばれ、お寺で詩を作ったり磨いたりすることが流行っていた。僧侶が詩を作れなければ、十分に優雅でないと見なされ、学者が僧侶と交流しなければ、十分に上品でないと見なされてしまう。したがって、学者は優雅さを高めるために積極的に僧侶と交流し、一方で僧侶は詩を作成することで学識を認めてもらい、影響力を高めるために学者と積極的に交流した。僧侶と学者の交流は、言葉や作詩技術を磨くだけでなく、社会活動でもあった。実際、明代の僧侶である雪浪洪恩は、詩の社会的機能を明確に理解しており、詩を学者や役人とコミュニケーションするための重要な手段と考えていた。明代後期の詩僧の詩は広く認知され伝えられ、社会的地位も大幅に向上した。黄檗宗の隠元禅師は禅意に富んだ詩で僧侶としての地位を高めたことがその一例である。

歴史上有名な詩僧は必ずしも仏学における造詣が深かったとは限らないが、「高僧は作詩に長ける」というのも当たり前のことではなく、恐らく明代後期以降に流行ったことである。明代後期以来の詩僧の作品を見ると、その時期の文化的傾向を感じることができる。例えば、当時の詩僧は「詩·書

艺术化的语言,是禅悟以后心灵的表现,禅悟以后才有精彩的文字,经由文字的生动展现,就表现出了创作者内在的心灵境界。正如黄檗僧人即非如一对诗歌创作的看法:“诗歌是心灵的表现,受到世界万物、人生经历的感发而体现在艺术形式之上,由此,人心所接触的,都是艺术的真相,所以说,诗就是文字形式的禅意。”(平久保章编,1993年)诗歌是心灵受外界感发的产物,禅宗能够从身边取譬喻,这就是诗禅不二的典型论述,也是习诗僧人为自己的行为寻求合理化解释最常见的理由。在论证诗禅不二的旨趣之后,即非如一的理想竟是“为忠为孝,为圣为贤”,这当然与即非禅师身处明清鼎革之际的时代背景有关涉,“以忠孝作佛事”亦是丛林置身“天崩地解”的时代之中形成的特殊的社会伦理观。