戎装僧人独耀性日

戎装僧人独耀性日

独耀性日,生卒年不详,俗姓姚,名翼明,字兴公,浙江海宁人。明朝灭亡后,他在浙东参加抗清起义,后拥护南明鲁王监国,官职方主事。浙江舟山被清兵占领后,他跟随鲁王避难厦门思明。姚翼明抗清多年,到处流离,但大势已去,复明无望,他不愿臣服清廷,清顺治九年(日本永历六年,1652)落发为僧,拜隐元禅师为师,隐元让他担任秘书之类的职务。但他并非不问红尘,断绝尘缘,而是与明朝遗民交往频繁,他与徐孚远、张煌言都互有赠诗。

最令人称道的是他冒险迁葬南明抗清志士钱肃乐。戊子年(1648),钱肃乐病逝琅岐岛,棺木露置琅江边,一直没能安葬。1653年冬天,叶向高的曾孙叶进晟敬慕钱肃乐的德义,不忍看到钱氏骸骨暴露江畔,有意捐资安葬钱肃乐,他找钱肃乐的好友何宠商议,但何宠迟迟未回应。正踌躇间,当时身在黄檗山的姚翼明得知此事,积极参与移葬,并与叶进晟一起商议准备将钱氏移葬黄檗山,隐元禅师也愿意提供一方净土给予安葬。

姚翼明为安葬钱肃乐做了大量的具体工作。1654年2月,姚翼明亲自徒步北上琅江,安排劳力抬着钱肃乐及其夫人、侄子的灵柩迁至黄檗山,路途遥远,前后历时两周。在钱肃乐的葬仪上宣读《告钱相国文》《再告钱相国文》和《三告钱相国文》,他与钱肃乐是同乡,敬慕钱肃乐的抗清志向,认为他死得其所。同年6月,隐元禅师东渡日本。姚翼明将禅师送至厦门,又回到黄檗山。腊月,钱肃乐终于得以安葬黄檗山东坡。

に、俗世の因縁を断ち切ったのではなく、明の遺民と頻繁に交際し、徐孚遠、張煌言とも互いに詩を贈っていた。

最も称賛されるのは、独耀性日が危険を冒して南明の抗清志士銭粛楽の墓を移したことだ。戊子年(1648)、銭粛楽は琅岐島で病気で亡くなり、棺は琅江のほとりにむき出しで置かれ、埋葬されなかった。1653年の冬、葉向高のひ孫葉進晟は銭粛楽の徳義を敬慕し、銭氏の骸骨が川のほとりにむき出しで置かれているのを見て、銭粛楽を埋葬するために寄付しようとした。彼は銭粛楽の親友の何寵に相談したが、何寵はなかなか応じなかった。迷っていたところ、黄檗山にいた独耀性日はこのことを知り、積極的に移葬に参加し、葉進晟とともに銭氏を黄檗山に移葬することを協議し、隠元禅師も一方の浄土を提供して埋葬しようとした。

独耀性日は銭粛楽の埋葬のためにたくさんの具体的な作業をした。1654年2月、彼は自ら徒歩で琅江に北上し、労力を手配して銭粛楽とその夫人、甥の棺を担いで黄檗山に移した。道のりは遠く、前後2週間かかった。銭粛楽の葬儀で『告銭相国文』、『再告銭相国文』、『三告銭相国文』を読み上げた。独耀性日は銭粛楽と同郷で、彼の抗清の志を敬慕し、彼の死に場所をついに得られたと思った。同年6月、隠元禅師が日本に渡った。彼は禅師をアモイに送り、黄檗山に戻った。12月に、ついに銭粛楽らの棺を黄檗山の東の坂に埋葬した。

同年、独耀性日は隠元禅師の生涯に関する最初の年譜である『黄檗隠元禅師年譜』の編纂を命じられた。『年譜』の全文には南明朝(明朝崩壊後,明の諸王が中国南方に打ち建てた地方政権)の年号が使用されており、清朝の年号は採用されていない。これは彼の清朝に対する屈服しない姿勢を示している。

隠元が日本に渡った年の10月には、独耀性日によって書かれた『年譜』はすでに長崎で刻印されて回覧され、隠元の影響力を拡大する上で重要な役割を果たした。独耀性日は隠元のあとにつき従ってわずか2年余りであったが、隠元の生涯の事業に重要な役割を果たした。隠元から日本に渡るように促す手紙をもらったが、結局彼は行かなかった。それは一方では彼が親孝行をするためであり、もう一方では、明代の再興にも希望を抱いているためでもあった。

也就是在这一年,姚翼明受命编写了关于隐元禅师生平的第一部年谱——《黄檗隐元禅师年谱》。《年谱》全文使用的都是南明年号,并未采用清朝年号,这表明他姚翼明对清廷的不屈服姿态。

隐元东渡当年的十月,姚翼明编写的《年谱》,就已经在日本长崎刻印流传,为扩大隐元的影响发挥了重要作用。虽然他跟随隐元仅两年多,却在隐元一生的事业中起了重要作用。隐元写信督促独耀东渡,但最终他并未前行,一方面是为了尽孝道,另一方面他对复兴明朝还抱有希望。

此后一段时间,关于姚翼明的情况不明。直到1661年,费隐通容禅师临终之际,姚翼明曾去福严寺探望。姚翼明还著有《南行草》《东明寺志》。

その後しばらくの間、独耀性日の状況は不明だった。1661年、費隠通容禅師が亡くなった。その際、彼は福厳寺を訪れたことがあった。また、『南行草』、『東明寺志』も著している。