声誉渐隆,赐地建寺

声誉渐隆,赐地建寺

普门寺距离京都皇室不远,隐元禅师住持普门寺不到一年时间里,建禅堂、塑佛像、演佛法,声誉高涨,他的佛教思想得到许多幕府上层官员和皇室贵族的肯定。他们不断向黄檗禅师提出求得法偈、法语、题赞、赠诗以及诵经的要求,在频繁的往来互动中,隐元禅师的弘法活动拥有了政治上的充分保障。然而,越来越稳固的弘法环境代替不了他对故乡的思念,福清黄檗山万福寺的僧众不断写信请归,师父费隐禅师也寄来信件,言辞恳切地催促隐元归国,并告知隐元,在日弘法已经三年了,应当急流勇退。(陈智超,1995)

愚堂、大愚らは隠元禅師の仏教思想と弘法の方式に猛反対し、論争が激しかった。

このように、隠元の日本での伝法活動は順調ではなかった。それに、福清の僧俗との三年の約束があるから、隠元は何度も帰国の意を表明していた。もちろん、当初の日本国内での謂れのない中傷は、彼の弘法の志願を妨げるものではなく、「知恵弁才、円融無碍」の才能で、まもなく幕府や皇室の信頼を勝ち取り、彼の思想はついに日本社会の上層部に浸透し始めた。

一年も経たないうちに、隠元禅師は各寺院から続々と招かれ、日本で高い名声を確立した。彼が僧徒を率いて船で大阪の普門寺に向かった時、見物人の多さに予定通りに上陸できなくなり、やむなく小船に乗って別の上陸地を探した。隠元禅師の来日は、民間の仏教への関心を再び引き起こし、日本の仏教の活性化のために新しい思想と力を注入し、日本の民衆に希望を与え、慰めをもたらした。それだけでなく、隠元禅師が普門寺にて住職をしている間には、一般の僧俗だけでなく、幕府の官僚も大勢参謁に来た。これまで隠元禅師の弘法は多くの僧侶の支持を得たものの、一部の保守勢力の反対や幕府の監視を受けていた。また江戸初期の徳川家康将軍は、仏教を捨てて儒学者となった林羅山が主張した儒学思想を大いに気に入ったが、仏教にあまり興味を示さなかった。そのため、幕府官僚の参謁は、幕府の仏教への支持を示し、これは仏教の発展にとって非常に重要だった。

名声が大いに高まり、土地を賜られ寺院を建設

普門寺は京都の皇室から近く、隠元禅師は一年足らずの間に、禅堂を建て、仏像を作り、講経説法をして、名声が大いに上がった。幕府の上層官僚、皇族と貴族は隠元禅師の思想を肯定し、禅師に法偈、法語、題賛、詩作を求め、絶えずに講経に招いていた。こうした頻繁な往来の中で、隠元禅師の弘法活動は十分な政治上の保障を獲得した。しかし、懐郷の思いはこれによっても解消できなかった。福清市の黄檗山の僧侶たちはしきりに書信を送り、彼が早く帰国し祖庭を維持するように懇願し、隠元禅師の師である費隠も書信を送り、催促した。費隠は、日本での弘法はもう三年になったので急流勇退するように隠元禅師に勧めた。(陳智超、1995)

信件到达逸然性融手上时,他担心隐元禅师深受触动,还故意扣压了三个月之久。当隐元禅师阅读师父来信后,立即回复说第二年夏秋之际回,这时间与原来的三年之约整整推迟了一年。日本方面,从天皇、幕府到僧俗界都已经十分信任尊崇禅师,此时后水尾天皇(1596—1680)以及京都的行政首脑板仓重宗(1586—1657)等人都皈依了隐元禅师,他们盛情挽留,希望禅师继续留日弘法。甚至有一些信徒还向神灵乞求留住隐元禅师,利益日本。

1658年11月1日,天晴气朗,在龙溪、秃翁等人的积极斡旋之下,隐元禅师终于得见幕府第四代将军德川家纲(1641—1680)。德川家纲是当时日本最高掌权者,他召见隐元禅师,意味着江户幕府对他的重视。同时隐元禅师还受到幕府重臣酒井忠胜(1587—1662)、稻叶正则(1623—1696)等人认可,并被邀请为酒井之父举行超度法事,又为稻叶的家庙安座释迦佛像。

这无疑是隐元在日本弘法活动迈出的关键一步。次年六月,日本皇室又将京都宇治区的太和山,赐给隐元师徒作开创新寺之用。太和山原是后阳成天皇(1571—1617)的妃子——中和门院前子(即后水尾天皇的生母)的别墅所在地,属于近卫家领地。作为外来禅僧,能获此地开山建寺,无疑是不容易的。这既与隐元本人的德行修为密不可分,也是龙溪等人积极斡旋的最终成果。

1661年5月,太和山改名为黄檗山,新的万福寺也开始营建,从此有“西黄檗”与“东黄檗”之称。日本黄檗宗也始终尊福清黄檗山万福寺为祖庭。据说在新黄檗动工之初,当地很多民众反对。在开挖地基时,发生了一件奇异的事,工人们在地下挖到一块有字的石碑,上面刻着四个字“无隐元晦”,通俗说就是“没有隐元会晦气”的意思。看来天意难违,这块土地冥冥之中与隐元禅师结下缘分,大家再无反对的声音了。如今这块石碑还供奉在日本黄檗山万福寺的斋堂内。8月29日,在新寺未建好的情况下,隐元禅师离开普门寺,进入黄檗山万福寺,住在临时搭盖的用房里,成为开山第一代住持。

建寺过程中,隐元还邀请闽南书画雕塑家范道生(1635—1670)前来协助造像。其中的法堂,也依从幕府老中(征夷大将军之下的幕府实权官员)酒井忠胜,去世前留下的遗命,捐巨资修建而成,酒井是隐元的坚定支持者,他本人最后也皈依了隐元禅师,并获赠法名“空印”,他在龙溪的斡旋活动中发挥了关键作用。

手紙が逸然性融の手に届いた時、彼は隠元禅師が感銘を受けて動揺するか心配し、わざと三ヶ月も差し押さえた。その後、隠元禅師は師匠からの手紙を読むと、すぐに翌年の夏か秋の頃に帰ると返事をしたが、三年の約束からちょうど一年遅れるようになった。この時、天皇や幕府から僧俗界に至るまで禅師への信頼が高まっており、水尾天皇及び京都所司代の板倉重宗らはみな禅師に帰依し、日本に留まり法を弘めよと強く引き止めた。信徒の中には、隠元禅師を引きとめるために神に乞う者もいた。

将軍のお目通りに関して、1658年11月1日、よく晴れた日に、龍渓、禿翁らの働きで、隠元禅師はついに幕府の四代将軍徳川家綱と会うことになった。当時日本の最高権力者であった徳川家綱が隠元禅師を召し出したことは、江戸幕府が隠元禅師を重要視しているということである。また、隠元禅師は幕府の大老であった酒井忠勝、稲葉正則らに認められ、酒井の要請で父忠利の三十三回忌法要を厳修し、稲葉の菩提寺に釈迦仏像を安置するよう招かれた。

これは隠元の日本での弘法活動において非常に重要でかぎとなる一歩であった。翌年六月、幕府より京都宇治区の大和山を開山の寺地として下賜された。大和山は元後陽成天皇の女御である中和門院前子(後水尾天皇の生母)の別荘地であり、近衛家領に属していた。渡来僧として、この地で新寺を建てることができたのは奇跡に違いない。それは隠元自身の徳行によるものであり、龍渓らの積極的な奔走の成果でもある。

1661年5月、太和山が黄檗山と改称され、隠元禅師を開山とする新しい万福寺が正式に建設されることになった。その後、中日の禅僧のうちでは福建の祖寺を古黄檗と呼び、日本の新寺を新黄檗と呼んだ。日本の黄檗宗は福清の黄檗山万福寺を祖庭としている。新黄檗の着工当初、地元では多くの人々から反対されたという。しかし、地盤を掘っていたところ、奇異なことがあった。「無隠元晦」、つまり「隠元がいなければ運が悪くなる」という意味の文字が刻まれた石碑が地下に見つかった。これは、この寺地が隠元禅師と縁があると示す神様の御心とされ、反対の声が消えるようになった。この石碑は現在なお黄檗山万福寺の斎堂に安置されている。八月二十九日、隠元禅師は普門寺より新黄檗山の仮屋に移り、まだ建設中の黄檗山万福禅寺に晋山し

酒井忠胜书状,福清黄檗文化促进会供稿

酒井忠勝書簡 (福清黄檗文化促進会提供)

黄檗派获得幕府将军正式承认。1663年正月,黄檗寺举行开堂祝圣仪式当天,德川家纲更是亲自驾临,并赐400石土地作为僧产,由此,中国临济宗黄檗派作为一大宗派,终于得到了幕府及其他佛教宗派的正式承认。(孙宝山,2016)1664年,隐元禅师七十三岁,他把住持之位传给弟子木庵性瑫,退居松隐堂。在之后的五年中,寺院中的主要殿堂如天王殿、大雄宝殿、法堂等相继建成,建筑群都是依山势坐东朝西,对隐元禅师和东渡僧侣们来说也具有遥望故土的意蕴。