初入扶桑,异声突起

初入扶桑,异声突起

隐元禅师到达长崎的当天,并未休息,而是立即与日本僧人相见,受到逸然性融和众檀越的盛情款待,寓居在兴福寺,分别对山门、佛殿、伽蓝堂、祖师堂、方丈五个地方作法语相赠。如写山门,“菩提路一条笔直,解脱门两扇打开。黄檗琦上座到这里如何趋向,看破脚跟下,步步是如来”。(平久保章,1979)之后,当天接见长崎地方官,谦恭致礼,禅师又各赠他们偈言。寺主逸然性融本想让禅师休养几日,以解海上长途之劳。但是,德高望重的隐元禅师之声名在日本久有传闻,闻风赶来的僧众络绎不绝,都想一睹禅师的风采,聆听禅师的教诲,学习禅僧的佛法。

京都万福寺祖师堂,福清黄檗文化促进会供稿

祖師堂 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)

み重ねが必要であり、弘法の場所も確保しなければならないため、寺院を建てることは当面の急務となった。儒教の急成長と道教の長期にわたる浸透という二重の逆境の下で、寺院を造り上げることだけでなく、政治、経済上の支持も獲得することは、極めて大きな困難であった。しかし、この一般僧侶が考えようとしない巨大な難関を、隠元禅師は乗り越えた。

渡日当初に上がった疑いの声

隠元禅師が長崎に到着した日、休むことなく、すぐに日本人の僧侶と会い、逸然性融や諸檀越の心のこもったもてなしを受け、興福寺に寓居した。また、それぞれ山門、仏殿、伽藍堂、祖師堂、方丈の五つの場所に法語を記した。例えば、山門に「菩提路一条筆直、解脱門両扇打開。黄檗琦上座到這里如何趨向、看破脚跟下、歩歩是如来」と書き上げた。(平久保章、1979)また、当日長崎奉行である甲斐正述と黑川正直の参謁を受け、二人にそれぞれ偈を贈った。寺主の逸然性融は、禅師に数日休養をするようと勧めたが、日本における隠元の名声は来日前に既に知られていたため、みんな禅師の教えを聞き、禅師に仏法を学びたいと思い、拝見者は絶え間なかった。

そのため、高齢になった隠元禅師は修養せず、長崎に来た初日から毎日、日本の各地から続々とやってきた僧侶や俗人の謁見を受けていた。毎日の布教説法で健康が害されると心配する逸然性融は接見をやめるようと勧めたが、禅師は「みんな遠路はるばる山を越え、川を渡ってやってきたので、断る理由はない」と慈悲深く言った。誰にでも、禅師はいつも我慢強く、注意深く、慈悲深く、中国高僧の高尚な道徳、寛大な振る舞い、深い学職をよく体現し、1 ヶ月も経たず、禅師は無数の僧侶を感服させて、日本の仏学界で大きな反響を呼び起こした。

同年十月十五日から、隠元は興福寺で冬安居(冬期結制、冬の期間に寺院にてひたすら座禅を中心とした修行に励むこと)を行い、翌年の正月に解制をした。「冬安居」とは、仏教の安居儀式であり、一所に「居」て、「安」心に修行を行うとのことだ。冬の期間、僧侶たちが勝手に外出できず、座禅や仏法の修行に専念することによって、僧団全体の資質が高まる。『普照国師年譜』に、「十月十五日結制、四方衲子雲集盈室、所慮處所狹窄、弗能廣容」と記す。この間、隠元の高徳と禅風を慕う具眼の僧や学者たちが日本各地から興福寺に雲集し、日本僧も唐僧も参加し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。正月解制後、日本各地から興福寺に集まってきた僧は倍するようになり、寺院の収容限度を超えたため、隠元は興福寺の外堂、茅房及び山門を建てて、広く僧衆を容れるようにした。1655年5月、隠元禅師は招かれて崇福寺に進み、開堂式を行い、五年前の弟子であった也嬾が果たしえなかった志願を果たした。(平久保章、1979)

为此,已到高龄的隐元禅师并未选择安静休养,从到长崎的第一天起,每天都在高强度接见来自全国各地的僧人和其他人等,而参谒的人应接不暇。看到禅师每天长时间处在施法布道之中,逸然性融担忧年事已高的禅师身体难以承受,就劝他停止接见。禅师不以为然,且心怀仁慈地说:“许多日本僧俗都是不远千里,跋山涉水,好不容易才来到这里,我没有理由拒见啊!”无论接见什么人,无论在什么时候,禅师都是耐心、细致、仁慈、关爱,把中国高僧的高尚道德、仁厚风采、渊博学识体现得淋漓尽致,不到一个月时间,禅师就折服了无数僧众,在日本佛学界引起不小的轰动。

同年10月15日,隐元禅师在兴福寺举行冬期结制,第二年的正月解制。所谓“冬期结制”,就是佛教的安居仪式,“居”于一处,“安”心办道,在整个冬季中,僧侣们不得随便外出,以全心坐禅和修习佛法,提高僧团的整体素质。《普照国师年谱》记载:“十月十五结制,四方衲子云集盈室,所虑处所狭窄,弗能广容。”这期间,仰慕隐元高德禅风的有识之僧、学者们纷纷从日本各地云集到兴福寺,呈现出一派日本僧、唐人僧都参加的僧俗数千的盛况景象。因人数众多,超出了寺院容纳限度,兴福寺在解制后不得不扩充修建堂房,以满足日渐增加的僧俗。1655年5月,隐元禅师受邀进驻崇福寺举行开堂仪式,实现了五年前弟子也懒性圭没能实现的心愿。(平久保章,1979)

长崎各家寺院的住持,大多来自中国,尽管隐元赴日已经得到了德川幕府方面的准许,但受到锁国政策的影响,隐元的传法活动还是受到了不少限制,规定传法对象只能限定在中国移民范围之内。根据《普照国师语录》载,隐元禅师到达长崎的第二天,有两位地方官就来拜访,这当然含有考察隐元禅师和他弟子的目的。不久,地方官向幕府递交了有关隐元禅师来日的情报,并报告了他来日的目的是为了弘法。随后幕府对情报进行了分析,在《德川实纪》里面有记载:“唐僧隐元携领徒弟六人乘船来到长崎。隐元禅师被问到是否是因为躲避战乱而渡日,于是由奉行出示了隐元的法语。”长崎地方官如此迅速地跟幕府汇报隐元的情况,可见其态度是非常谨慎的。(田中智诚,2020)

長崎の各寺院の住職の多くは中国から来ており、隠元の日本への渡航は徳川幕府側の許可を得ていたものの、鎖国政策の影響で隠元の弘法活動は少なからず制限され、弘法の対象が中国の移民に限定されていた。また、前述の二人の奉行が訪問し、隠元とその弟子たちの一行を考察する目的を持っているのは当然のことと思われる。その後、二人の奉行は隠元渡來に関する情報を江戸幕府に届け、渡來の目的を「弘法のため」と報告した。幕府は長崎奉行の呈した情報を分析した。『徳川實紀』に「(承応三年九月)唐僧隠元徒弟六人引つれ、長崎の地に来舶せるをもて、其さま問はせられしに、かの国の乱を避て帰化せるにまぎれなければとて、奉行よりその法語を進覧す。」と記されている。このように、長崎奉行は隠元のことを即急に幕府へ報告したので、その態度は慎重である。(田中智誠、2020)

各方面の努力によって、隠元禅師はようやく日本の民衆との接触を許可され、禅師の教えを乞う日本の禅僧は続々とやってきた。その中には、京都臨済宗妙心寺住職の龍渓宗潜(1602—1670)など有名な高僧がいる。龍渓は以前から『隠元禅師語録』を読み、隠元の徳風に感心し、妙心寺へ招聘しようとしたが、妙心寺の一部の僧侶に反対された。その後、隠元禅師は摂津富田(今の大阪府高槻市)の慈雲山普門寺に迎えられた。それについて、日本の学者である鷲尾順敬氏は、「長崎興福寺の逸然禅師を通じての渡来であったが、当時の評判は大変なもので、早速妙心寺の竺印などが相見して感服して、京都に帰り、龍渓、竺印、禿翁の三人の和尚が、板倉所司代を説得した。其の頃は天草の乱、即ち邪宗門の暴動の後であり、支那民が兵を挙げるといふ流言蜚語も盛んに行われた頃であるから、所司代に隠元語録を示して、風説の如きではないことを明らかにし、幕府も動かした。京都より五里隔てた摂津の富田の普門寺といふ寺がある。その寺へ禅師を屈請した」と述べた。(田中智誠、2020)隠元禅師が普門寺に晋山した当初、四方の僧俗たちはそれに対して半信半疑で、風説が飛び交っていた。幕府の手配により、禅師に会おうと思う者はまず当地の寺院管理所において申請書を提出したのち、はじめて普門寺に入ることができた。また、寺院に集まった日本僧のうち二百人だけを受け入れ、俗人の謁見は、また竜渓ら三人の認可を経なければならなかった。(孫宝山、2016)それに対して、禅師は「元祖である菩提達磨が中国に伝法に来たが、妬まれて毒殺された。また宋代の名僧蘭渓道隆も日本に渡って根拠のないデマによって流刑になった。昔はそうだったから、今も変わらない。」と言った。彼は禅宗の先祖に倣い、心の準備をしておいたから、すべての苦境に淡々と直面することができた。

长崎兴福寺隐元铜像,福清黄檗文化促进会供稿

隠元銅像 長崎市興福寺 (福清黄檗文化促進会提供)

经过各方争取,隐元禅师最终才获准与当地的日本民众接触,日本禅僧纷纷前往寺中拜见寻访。这其中,就有如京都临济宗妙心寺住持龙溪宗潜(1602—1670)等著名高僧。龙溪此前就曾读过《隐元禅师语录》,对隐元禅师非常崇拜,原本希望邀请他担任妙心寺住持,遭到妙心寺部分僧侣反对,转而担任摄津(今大阪府高枧市)普门寺住持。关于迎请隐元禅师到普门寺的事情,日本学者鹫尾顺敬(1868—1941)这样说道:“虽然是通过长崎兴福寺的逸然禅师来日本的,但是当时对此的评价并不乐观,于是妙心寺的竺印等立刻求见,被隐元折服,回到京都,龙溪、竺印、秃翁三位和尚一起说服板仓所司代(板仓的最高行政官员)。当时正值“天草之乱”(即邪宗门暴动)之后,也是中国将要举兵的流言蜚语非常盛行的时候,为此他们把隐元语录给所司代看,证明不是大家所流传的那样,同时也动员幕府,让隐元禅师到离京都五里远的摄津富田的普门寺,担任住持。”(田中智诚,2020)1655年9月5日,隐元禅师入住普门寺,四方道俗疑信相半,是非蜂起。起初他与日本人的会面及外出活动还是受到了限制,聚会寺院的日本僧人每天被控制在200人以内,俗人参见要经过龙溪等人的批准。(孙宝山,2016)但禅师说:“当年鼻祖菩提达摩西来中国传法被人记恨投毒致死,宋代僧人兰溪道隆东渡日本因为流言被流放,古人都这样,更何况今人,没什么好奇怪的。”面对流言蜚语,隐元禅师早已经做好了心理准备,禅宗先祖的榜样力量让他能够淡然面对一切困境。

また一部の保守勢力、たとえば儒者の向井元昇、京都臨済宗妙心寺の和僧

长崎崇福寺匾额,福清黄檗文化促进会供稿

扁額 長崎市崇福寺 (福清黄檗文化促進会提供)

一些保守势力也对隐元禅师进行攻击。儒者向井元升、京都临济宗妙心寺的日本僧人愚堂、大愚等也竭力反对隐元禅师的佛教思想和弘法方式,争论十分激烈。

由此可见,隐元初到日本的传法活动并不顺利,加上他曾与福清僧俗各界有三年就回山的约定,所以多次表露回国之意。当然,日本国内的异声并没有阻碍隐元禅师的弘法大愿,他以“智慧辩才,圆融无碍”的才能很快赢得了幕府和皇室上下的信任,他的思想终于开始向日本社会上层逐渐渗透。

不到一年时间,隐元禅师在日本树立了强大的声望,后来日本各寺院竞相邀请说法,在他率众坐船奔赴大阪普门寺的时候,还因为观者如潮导致无法上岸,只好改乘小船另寻落脚点。隐元禅师的到来,引起日本民间对佛教的再次关注,为振兴日本佛教注入了新思想、新力量,给日本民众带来希望,带来抚慰。不仅如此,隐元禅师在大阪普门寺期间,除了普通的僧俗前来参谒,幕府官员也纷纷加入。这是一个重要的标志,因为在此之前,隐元禅师的弘法虽获得大量僧众拥护,也受到一些保守势力的反对和幕府的监视。况且江户初期的德川家康将军,对弃佛从儒的林罗山所主张的儒学思想颇为中意,对佛学却兴趣淡然。而此时,幕府官员的加入,对于佛教来说,是获得了幕府的支持,这对于佛教的发展,至为重要。