其他黄檗诗人
除了以上提及的五位重要的黄檗诗人外,黄檗宗内还涌现了一大批优秀的诗人,有中国黄檗僧如独立性易、南源性派、独耀性日等,也有日本黄檗僧如月潭道澄、百拙元养等。下面择要介绍。
独立性易(1596—1672)。台湾学者徐兴庆编纂《天间老人全集》,收有独立性易的诗文。独立性易生命历程中也有两次重要转折,一是明清鼎革,一是东渡日本。早年作品多悲歌激越之情。如:
故国愁思客里魂,一身徒泣老乾坤。
十年胡马英雄泪,血溅江南草木髡。
一身盲聩日痴痴,老大年过泪两垂。
日月竟沉终古夕,望中明发在何时。
身处难逢恨处深,十年难过恨惊心。
谁扶日月还双阙,望眼明离直至今。
野哭时时放独行,江南血战未销兵。
生憎老眼空双盼,指顾河湟收两京。
(《感怀》)
置身异国,失去家园,句句可见亡国之痛痛彻心扉。独立性易在日本依止黄檗宗之后,生活渐渐有起色,生活也相对愉悦,诗歌中多了一份山水之乐,如《溪上吟》:“山山排翠插天高,远水拖云接海涛。十里放舟随去住,一时游兴快吾曹。”舍弃了国破家亡之恨,朋友间游赏风光,欢欣快意。(廖肇亨,2016)
南源性派(1631—1692)。黄檗禅僧众,许多人都擅长写诗文,其中南源的诗歌水平受到更多推崇,当时就有“诗南源,文高泉”的说法,认为南源性派更擅长写诗,高泉性潡则偏重于作文章,二人同时都深得隐元的信任和赞许。南源性派旅居日本三十年,传有诗集《芝林集》《藏林集》,其中也记载日本富士山的风景,如《咏富士峰》:
きない。東皐心越が渡日する前、1673年に三藩の乱が発生し、1674年に鄭経が台湾から軍隊を率いて一挙に突破した。鄭経の軍隊は陸軍だけでなく海軍も含まれているため、海岸線も連日戦場になっていた。彼が書いた『東渡述志』によると、舟に乗って海に出た時、「身依矛甲間、耳聞猶其訇」、身が兵器に囲まれていて、耳には戦争の爆発音が響いている。その後は順調に海に出られず、舟を捨てて島に隠れて苦しい2 ヶ月を過ごした。船が通るようになると、東皐心越はすぐに出発し、明王朝を復活させるという彼の希望は打ち砕かれた。1676年、耿精忠の部隊は何度も負けてついに降伏した。そのためこの詩はまた、日本へ渡る自分の無力さ、国に対する失望と悲しみ、そして広大な海に対する迷いと未知を表現している。「衆人頻涙流」は、東皐自身の心の悩みを言う。「丈夫家四海」と言ったように日本に期待していることも明らかだが、「身命総虚空」の文字通り、心の底ではよく無力さを感じていたこともわかる。
東皐の渡日の過程は順調ではなく、彼の詩『懷憶昔渡海歌』には「不期一夜起朔風、驚濤駭浪若遊龍」「凝眸千裏見崆峒、恍惚転入島之洪」と書かれたものがある。そこから、東皐が長い旅に苦しんでいただけでなく、実際には様々な困難と危険を経験し、心が落ち着かない様子だったことがわかる。(頼思妤、2016)
日本への期待。絶望的な状況を乗り越えた東皐心越は、日本の平和の光景を見て、かえって日本に期待を抱いた。『東渡述志』の後半には、「始知宇宙內、方壺別有天。風土殊非異、屋舍古猶然。居民皆純朴、日用自省便。松竹郁蒼蒼、花卉鮮艷艷。時稔多豊登、萬事無余欠。泊舟有旬日、正値梅花吐。笑把梅花嗅、陌路頻相顧。捻指計流光、不覚歲雲暮。」と書いている。日本の素朴な民俗と自然の風景はまるで桃源郷のようで、東皐の旅の疲れと不愉快な気持ちが一掃された。「笑把梅花嗅」は幸せで楽しい気分が満ち溢れているということである。東皐には『舟中得梅』「笑把梅花処、陌路喜相親」、『書梅偶憶』「呵筆偶然書此意、為伝春信到梅花」と、梅の花に関する詩がたくさんあり、好きな梅を借りて志を託している。
郷愁の念。東皐心越の詩文には、仏法の宣伝を記録したほか、郷愁を表すものも多い。例えば、『除夜』という詩がある。
抱得孤标出白云,满头犹带雪雰雰。
时清幸免朝明主,宦冷应教笑广文。
常吐珠光连绝顶,却忘身世对斜曛。
魏巍卓立扶桑国,到底难将野火焚。
首联突出富士山独立不屈的精神品质,第二联暗喻中土政局不稳避祸日本。最后一联“野火焚”,带有反清复明的政治态度。
南源性派与朝鲜诗人也有交往,他曾两度接触朝鲜通信使。在日本的朝鲜通信使,除了日常的外交任务以外,也经常与日本文人知识分子交游往来。朝鲜使节在明朝灭亡后,仍然保持着故国衣冠,认可明朝,拒绝清朝,这些态度在处于异国他乡的南源禅师,十分感慨,于是有感而发,创作了一首《高丽入贡》诗,其中说道:“衣冠半属明朝口,族氏原为商代亲。”可见南源性派自己反清亲日的政治立场,以及对朝鲜使节的认可乃至欣赏。和南源一样,很多黄檗禅僧都借用诗歌创作,开展外交活动,表明彼此的政治立场,用诗歌等文化活动,连接东亚诸国的外交使节,这或许也是江户时代黄檗文化受到幕府倚重的一个重要原因吧?(廖肇亨,2017)
总之,黄檗僧诗主要集中于三个方面内容,一是明清易代之际对时局的关注,二是东渡日本对异国文化的接受,三是僧家修行对事物的禅悟。黄檗僧团文艺性浓郁,他们自身的才华触发了日本僧人创作汉诗文的热情,影响力巨大,由此可以判定黄檗僧诗歌在东亚汉诗史上必须占有一席之地。