日本黄檗宗的创立

三、日本黄檗宗的创立

隐元禅师赴日以后,在多个方面为日本佛教发展做出了贡献,最突出的是建立宗派。宗派是教徒思想传播的群体,有了群体,便有了规矩,便有了可资依赖、围绕的中心,便有了原则和指导思想,这对于任何一门学问的发展、宗教的发展,都是行之有效的途径。而建立宗派困难重重,尤其是对于一个异域僧人来说。思想传播需要宵衣旰食、长年累月的能量输出,传播的地点也需要有保证,建立自己的寺庙,必然是当务之急。要在儒教欣欣向荣发展、道教根深蒂固的双重压迫下,建立一个实体寺庙,并获得政治上、经济上的力量,这是一个极大的困难。这些对于一般僧人来说,是想都不敢想的巨大困境,一代神僧隐元禅师,都克服了。

ものとなった。古い葉が黄色くなり、新しい葉がいつか芽生え、因縁というものもかくのごとしである。言行は一致せねばならず、約束は必ず果たすものだ。しかし、しばらくの別れの後、またいつか必ず帰ってきて、その時空青く雲白く、国の情勢がよくなるよう期待している。禅師は日本への渡航は因縁の賜物であり、言ったことは必ず実行すると語っている。弟子と檀越に三年の期限を約束したので、黄檗山十二峰をしばらく離れて、空が澄み、雲が清まるまでに帰ってくると書いたのだ。

渡航中、禅師は夜に詩を詠んだ。「萬頃滄浪堪濯足、一輪明月照禪心。可憐八百諸侯國、未必完全得到今」(平久保章、1979)荒波に乗り、明月を眺めている隠元禅師は思い巡らし、旧朝への愛着と新朝への不満が詩文ににじみ出ている。ある夜、隠元は也嬾性圭をはじめ弟子千人余りが参謁に来た夢を見た。夜明けに夢から覚めると、隠元は世の中の変化はこの荒波のように定まっていないと感慨深かった。幸いなことに、道中は全体的に穏やかで、出航してから十五日後に長崎に到着した。

長崎港に着く前の夜、海に赤い光が横たわっているのを見た漁師たちは、最初は船が火事になったのではないかと思い、それぞれ小船に乗って救助しようとしたが、近づくとその赤い光が突然消えた。翌朝、隠元禅師の上陸を聞くと、昨夜の赤い光は隠元禅師が日本国に入った吉兆であることがわかった。これにより、隠元禅師は日本黄檗宗の弘法を開始し、中日文化交流のために不滅の業績を残した。

三、日本黄檗宗の創立

隠元禅師は渡日後、様々な面で日本仏教の発展に貢献したが、そのうち最も際立っているのは宗派の創立である。宗派は思想を伝える教徒の団体である。宗派があってこそ規律が生まれ、活動の中心拠点として原則や思想が導かれ発展する。しかし、宗派の確立は容易なことではなく、特に渡来僧にとっては困難であった。法を広めるには衣食を忘れるほどの勤勉さと長年の積