万福寺遗迹
山门
万福寺的第一道门称总门,第二道门称山门。山门前面立着一块石碑,刻写着“不许荤酒入山门”。在日本的寺院中,只有黄檗宗寺院才有此类石碑。据说,自从隐元禅师开创并担任黄檗山万福寺住持以来,对出家僧人提出了严格的规范,除了按时诵经、坐禅,还必须严守禅门各项戒律,以此树立黄檗僧人的形象。如今日本的和尚既可娶妻,又可饮酒食肉,但在万福寺内依然严守不饮酒、不邪淫的戒律。石碑旁边就是中国式的庙宇山门,宏伟高大,上下两层,两块由隐元禅师亲手题写的匾额“黄檗山”“万福寺”高悬于门楣。当年的东渡僧人们看到这样的匾额一定找到了回家的感觉。
や著書は世代を超えて大勢の日本人に影響を与え、思想の啓発と指導、慰めと慈悲をもたらしてきた。今日に至り、黄檗文化の影響は優れた文化遺産として、また文化的伝統として種々の分野に遺されており、枚挙にいとまがない。日本の黄檗宗寺院と日本各地には黄檗旧蹟が無数に残っており、隠元禅師の物語と奇跡を語り続け、中日交流の輝かしい歴史の証でもある。
万福寺旧蹟
山門
万福寺の最初の門を総門、二番目の門を山門(日本は「三門」とする)と呼ぶ。山門の前には「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」と書かれた禁牌石が立っている。日本の寺院の中では黄檗宗の寺院だけがこのような禁牌石がある。隠元禅師が黄檗山万福寺に住職した当初、厳格な規則を定め、時間通りに読経や座禅をするだけでなく、禅門の諸戒律を厳守させ、黄檗僧のイメージを確立させたという。現在日本の僧侶は普通、妻帯肉食できるが、万福寺では依然として酒を飲まず、邪淫をしないという戒律を厳守している。禁牌石の隣には豪壮雄大な中国式の山門があり、二階二重門、正面の額「黄檗山」は緑青に金字で書かれており、同じく隠元禅師によって書かれた「萬福寺」の額とともに高く垂れ下がっている。当時の渡来僧たちは、この額を見て家に帰ったような気がしたに違いない。
木魚
万福寺の大きな木魚は日本全国の寺院で唯一無二のもので、万福寺のトレードマークとなっている。木魚は飯梆、魚板、魚鼓、魚梆、鳴魚とも呼ばれ、魚の形をしていることからこの名がついた。木魚は球形の木を空洞にし、表面一部に魚鱗の彫刻を施したものである。長さは約3 尺で、叩くとボンボンと音がする。中国古代の禅寺では、よく浴室に吊るし、入浴を知らせるために鳴らす。現代の普通の寺院では、斎堂の外に吊るされることが多いが、一部は法堂のそばに吊るされ、日常の行事、儀式の時を知らせるために礼棒で打たれる。もともと日本の寺院には木魚叩きの制度はなかったが、黄檗文化の伝来とともに日本に持ち込まれ、現在日本の寺院の新しい風景となった。また、木魚は黄檗宗普及の象徴の一つとなり、木魚の有無で、この寺が黄檗宗の影響を受けて建てられたかどうかを判断することができる。
京都万福寺总门,福清黄檗文化促进会供稿
総門 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
木鱼
万福寺的大木鱼是日本全国寺院中独一无二的,乃至成为万福寺标志性的“品牌”。木鱼又作饭梆、鱼板、鱼鼓、鱼梆、鸣鱼,因为具有鱼的形状而得名。木鱼由实木挖空而成,长约三尺,敲击时,发出“邦邦”的声音。古代禅林中,木鱼常挂于浴室,敲击以通知大众入浴。当代一般寺院中,多悬挂在斋堂外,部分悬挂在殿堂旁,用以通知僧人用斋及法事仪程时间等。日本寺院原本并没有木鱼敲击制度,黄檗文化传入日本后,也带去了木鱼制度,成为日本现今寺院的新景观。木鱼也成为黄檗宗普及的象征之一,看寺院里面有没有木鱼,就可以判断这所寺院是否受黄檗宗影响而建。
木雕佛像
在隐元禅师留给后人的“文化遗产”中,佛像木雕是具有历史文物价值的重要组成部分。当年,隐元禅师把福建泉州的雕塑巧匠范道生邀请到日本,为长崎各寺院雕塑了大量佛像。后到京都万福寺,仅用一年多时间,他就雕塑了十八尊像,包括罗汉、观音、弥勒、韦陀、关帝等像。范道生不仅雕工精巧,而且最能理解和体现佛像的“神韵”,深得禅师喜爱。可惜后来应邀奔赴越南造像,再回日本时在长崎病逝。范道生在日本雕塑佛像虽然只有六年的时间,却通过佛像见证了日本黄檗宗的开创,也开启了日本雕刻佛像历史的新纪元。
京都万福寺山门,福清黄檗文化促进会供稿
山門 京都市万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
隐元手书匾额,福清黄檗文化促进会供稿
隠元禅師書の額 (福清黄檗文化促進会提供)
黄檗山万福寺鱼梆
魚梛 黄檗山万福寺
黄檗语言文化
黄檗宗寺院使用的唐音,即明代官方汉语语音,成为黄檗文化的重要组成部分,直接影响了江户时代日本的唐话学(研究中国话的学问)。当时的文人,特别是日本汉学家,都对黄檗唐音有浓厚的兴趣。例如江户后期的儒学家、古文辞家荻生徂徕(1666—1728),深受黄檗文化的影响,在学术上提出了用汉语语音直接阅读中文典籍的方法等。(林观潮,2013)
黄檗语言文化,又称“唐话学”。明宣德年间(1425—1435),闽商兴起海上贸易,日本长崎成为登陆点和移居地,涌现了许多优秀的唐通事百年家系。明万历年间,长崎唐通事家系达到顶峰,后来出现的福清人有被誉为“闽人才俊”的林楚玉、“纺织大王”的俞惟和、“长崎依哥”的何高材、“东京舶主”的魏之琰等,他们对于明代与日本的商贸往来和文化交流发挥着积极的作用。因为长崎港的接纳和融合,中国江南尤其是福建,在长崎、关西、北九州地区拥有相当数量的从事商贸活动的人口,长崎最盛时,7个长崎人中,就有一个是福建人。
木鱼,福清黄檗文化促进会供稿
木魚 (福清黄檗文化促進会提供)
木造の仏像
木造の仏像も隠元禅師が後世に残した「重要文化財」である。当時、隠元禅師は福建泉州の仏師範道生を日本に招き、長崎の各寺院に大量の仏像を彫らせた。1662 年頃、彼は萬福寺で造仏を行い、わずか1 年余りで十八体にものぼる羅漢像、観音、弥勒、韋陀、関帝などの彫像を作り上げた。範道生は精巧な彫刻技法を持っているだけでなく、仏像の「神韻」を最も理解、表現でき、隠元からよく称えられている。その後、ベトナムに招かれ、1670 年に再来日したが、長崎奉行所は入国を許可せず、船中で病没した。範道生の日本での造仏はわずか6 年しかないが、仏像を通じて日本の黄檗宗の開創の目撃者となり、日本の造仏の歴史における新時代を開いた。
黄檗の言語文化
黄檗宗の寺院で用いられる唐音、すなわち明の官話音は重要な黄檗文化の一つとなり、江戸時代の日本の唐語学(中国語を研究する学問)に直接な影響を与えた。当時の文人、特に日本の漢学者はみな黄檗唐音に深い興味を示していた。例えば江戸後期の儒学者、古文辞学派の荻生徂
同样,带有厚重口音的福建话(沿海的闽中、闽东、闽南方言),流行于长崎的大街小巷。特别是与隐元禅师同时期东渡日本的精英人士,成千上万,形成“隐元现象”。历史经历了三百多年,岁月风雨冲刷了记忆,繁华不再,但语言就像空气一般,在民间、在人们的潜意识里,传说着、延续着。比如:电话、世界、学校、教室、学生等都还原本保留着汉语的字音字义。隐元还是日本中国式素餐(普茶料理)的始祖,而“普茶料理”作为“福清料理”的指代,以外来语形式出现在日语中,这也说明“普茶料理”源于福清。还有餐桌上的食材和制作工艺,依然保留着福清人最朴实的做法和叫法:“他满卵”“仆倒猪肉”“蛏烳炸”“炒夲”等,听起来亲切顺耳,饱含着一份沉甸甸的乡愁。
雕版文字
日本万福寺的宝藏院,收藏有六万多件黄檗宗铁眼禅师版的雕版木,其中使用的,都是中国的“宋体字”,日本僧俗文人却称这种由明末东渡黄檗僧人传入的字体为“明朝体”。现在流行的日本文字中的汉字就是以这个“明朝体”文字为原型。