隐元禅师的诗偈创作

隐元禅师的诗偈创作

隐元禅师不仅是一位佛法高僧,也是佛教文学的重要作家。根据现存各种《隐元语录》统计,隐元禅师所创作的诗歌和偈子,总计达4 909首,这还不包括传世墨迹中的文字。这样的创作数量,且不说在佛教史上,即使在中国古代文学史上,无疑也是相当多的。隐元诗歌和偈子的体裁也相当完备,几乎涵盖了古体诗中的所有体式,包括四言古诗,六言古诗,五、七言古诗,五、七言律诗,五、七言绝句等,可谓古体诗歌创作无一不精。(林观潮,2010)

这些作品,大多属于隐元即兴创作的,主要抒发隐元禅师个人的思想感情,大体而言,除了在诗歌和禅宗偈子中阐发佛理、禅境之外,在具体人生经历和个体思想感情方面,隐元的诗歌还主要包含三个方面的思想内容:

遗民的心事。明清易代之际,当时的佛学界,大致可以分为支持新政权的“新朝派”和怀念故国的“遗民派”。隐元的态度十分坚定,他对清朝政权并无好感,自然属于“遗民派”。因此,在他的诗歌中,经常透露出与清廷的抗争。

と唐伯虎の子供同士が結婚し、また祝枝山、文徴明と同じく書道と絵画の両方が得意なので、一時有名であった。書道の面では、王寵は行草が得意で、作品は鋭く芯がしっかりしており、これは極めて高い芸術の領域である。王寵の作品で最も有名なのは小楷で、独特なスタイルがあり、巧みな中に拙さがあり、何気なく見えているが、実際は字の形と筆遣いの技を活かし、器用な一面を現している。王寵の生涯は短かったが、『辛巳書詩』『石湖八絶句冊』『古詩十九首巻』など書道作品を数多く残した。王寵の書道は黄檗禅僧の独立に大きな影響を与え、禅師の独立を通じて日本の書道の発展に長い間影響を与え、ついに「東江流」書道の形成につながった。

明代末期の文人と書道。明末清初の最大の矛盾は民族矛盾であり、この時期に代表される書道家には李贄、徐渭、黄道周などがいる。彼らは自由奔放で、束縛されず、世の中に対して憤りを感じていた。書道の創作において自己の内在的な生命力に対する認識を表現し、芸術個性を極限まで伸ばした。

徐渭(1521—1593)、字を文長、号を天池山人、晩年号を青蓮道士とし、浙江山陰の出身だった。明代後期の有名な書家、画家、文学者である。彼の書道は乱雑で取り乱れているように見え、構造が歪んでいて、全体の書風が大胆で、王羲之、顔真卿の書道が持っているような温厚さと荘重さはまったくないが、宋代の文人の書法の「尚意」を持っている。つまり芸術家の心の中の感情を表現することが強調されており、宋代の芸術が明代後期になって再び模倣の対象になったのである。伝統的な書道を真似した過度な美しさ、わざとらしい優雅な「美」を否定することは、運命の不公平に対する反抗であり、退廃的な生活に対する訴えであった。その後このような風潮の影響が次第に拡大し、ますます多くの芸術家が書画芸術の自己独立を強調するようになった。特に明清の際、時代交代による社会の大激動は、多くの芸術家が心の中の憤慨と孤独を表現するために、人生とは超俗的で孤高で寂しいものであることを示し、書道絵画の革新意識が徐々に主流になり、個性的な芸術への追求と芸術的特徴を示している。

黄道周(1585—1646)、福建漳州の出身で、書道も絵画も得意とし、詩文、隷草はいずれも彼の独特なスタイルがあった。黄道周は明末の有名な忠臣で、身をもって国に殉じた。書道において大きな業績を上げたすばらしい能書家である。黄道周の行草は最も特徴的で、筆遣いが自由自在で渾厚で、力強く、古人作品の精華を取り入れながら強い感情を自らの作品に注入した。その特徴はまさに彼の剛直な人柄の表れであった。例えば、彼の立軸行草『途中見懐詩軸』は、墨の色合いが絶妙で、筆に力強さがあり、孤臣義士の何事にも屈せず、俗流におもねることのない心を表現していた。

自愧龙钟百不能,那堪海外任腾腾。

蓦逢灭却瞎驴眼,可起明朝一代僧。

(《自叙》)

自叙自己年老无能,受不了海外中国新朝气势腾腾的局势。瞎驴,即佛教用语,比喻最愚蠢的人。灭却瞎驴眼,是禅宗公案,表面上去嘲讽瞎驴,实际上是褒扬真正悟道的弟子。隐元禅师的意思非常清楚,如果碰上我这个瞎驴,我坚定告知大家,我就是明朝的一代僧人,绝不改朝换代。这首诗也可以看作是他的政治宣言。

隐元禅师在他的诗作中,还不断强调忠孝的重要性,尽管晚明朝纲堕落,政局腐败,但身处新旧政权更迭之下,坚持节气操持是人的最基本要求。他曾经说:“忠孝是第一根本,忠孝稳固,文学创作自然繁茂。”(《复独耀侍者》)面对故国不断传来抗清人士牺牲的消息,隐元禅师也不断地在诗歌中表达他对肝胆节义之士的歌颂。如“死节尽忠真铁汉,填沟塞涸是名贤”(《感怀》)、“丈夫御世贵成仁”(《偶成》)、“忠心悬碧汉”(《示忠岩信士》)、“丈夫处世贵成仁,心镜揩磨日日新”(《示客》)等等,这样的诗句,在他的作品中,随处可见。

梦境与乡愁。隐元禅师诗偈中,去国怀乡之思的作品随手可得。1655年,隐元禅师到达日本长崎后的第二年,就写下了这样一首诗:

竟日憨憨憩小楼,梦闻故国又惊愁。

火云堆里微开眼,拟是梵天血溅流。

(《卧游感怀二首》其二)

卧游,是指日本崇福寺里的卧游居,是隐元的信徒们为隐元修建的居所。当时,清廷与郑氏之间的战事不断,福建沿海动荡不安,诗中抒发了隐元作为一个惊魂未定的老人,纵使在万里海涛之外,眼中呈现的,也仍是一个个刀光剑影的画面。

隐元晚年78岁的时候,还创作了一首《栖贤吟》,其中说到“日寄新黄檗,夜归古福唐”,诗中的“福唐”,是故乡福清的古称,诗句中表达了他只能在梦中回到故乡以解相思的拳拳之心。晚年还有一首诗,也浸透了他无尽乡愁:

黄道周の人格、詩文、書画は黄檗僧侶の文学芸術創作に深く影響している。両者の書画芸術は、実際には晩明の書画絵画芸術における個性を強調する主張と切り離せないもので、両者ともこの時期の文人文化の産物である。

中国の書道芸術は隋唐時代から朝鮮、日本、東南アジアに伝わり、漢民族特有の芸術が異国で成長し、書道の民族性と国際性の両方を示している。

江南の文化と文人は明代独特の文化形態を創作し、このような文化的雰囲気の中で、黄檗宗の僧侶たちは自然に文化的雰囲気とともに育った。黄檗文化が江戸時代の日本に伝わり、さらに発展できたのは、様々な背景と内外の条件を除いて、明代の中後期からの江南文人文化の産物があったからに他ならない。これは地方的な民族文化ではなく、民間宗教文化でもなく、高度に発達した中国文化の一部である。黄檗と周りの文人学者は、中華文明の対外交流の使者、または仲介として中国と日本間の文化を繋いでいった。具体的には、明代後期の成熟した文人文化を、日本社会と日本文化に大量かつ集中的に伝え、日本文化の発展と文芸家集団の形成を促進し、さらに江戸時代の輝かしい文化の発展を推進する最も重要な原動力の一つとなったのである。(廖肇亨、2007)

二、黄檗僧侶と黄檗詩偈

当時の一般文人集団の文化生活の風潮と同じように、詩文創作も明清の際に黄檗僧侶たちの間で流行り、彼らのお互いの身分と能力の象徴でもあった。隠元の弟子の高泉性潡は、「心の中に詩があればそれが禅となり、詩歌の創造は禅を悟ることである」と述べた。詩と禅の関係についての考えは、禅宗を実践するのは古い伝統とは言え、明清時代になると、黄檗禅がこれを更に引き継いだので、黄檗宗早期には僧侶たちの著作に大量の詩があった。

费隐通容书迹,福清黄檗文化促进会供稿

費隠通容隷書 (福清黄檗文化促進会提供)

隠元禅師の詩偈創作

隠元禅師は仏法の高僧であっただけでなく、仏教文学の重要な作家でもある。現存する各種の『隠元語録』の統計によると、書道作品のなかの作品を除いて、隠元禅師が作成した詩歌と仏偈は4909もある。このような創作数は、仏教史においても、中国古代文学史においても、間違いなく非常に多い。隠元詩歌と偈陀の体裁もかなり完備して、ほとんど古体詩の中のすべての体式をカバーしており、四言古詩、六言古詩、五、七言古詩、五、七言律詩、五、七言絶句などが含まれている。古体詩歌の創作にはすべて精通していると言える。(林観潮、2010)

これらの作品の多くは隠元が即興で作り、主に隠元禅師個人の思想感情を表現している。詩歌と偈陀を通じて仏教思想と禅の境地を説明する以外に、人生経験と個人の思想感情についての作品もある。隠元の詩歌は大体以下の三つの内容からなっている。

遺民の思い。明清時代交代の頃、当時の仏教界はほぼ新政権を支持する「新朝派」と旧政権をを懐かしむ「遺民派」に分けることができる。隠元は清朝政権に好感が持てず、おのずと「遺民派」に属するようになった。そのため、彼の詩歌には清朝政権との対抗がしばしば見える。

自愧龍鐘百不能、那堪海外任騰騰。

驀逢滅却瞎驢眼、可起明朝一代僧。

(《自叙》)

自分は年を取って無能であることを訴え、清王朝勢力には耐えられない。「瞎驢」とは仏教用語で、最も愚かな人のことを言う。「滅却瞎驢眼」というは禅宗の公案で、表では目の見えないロバを皮肉って、実際には悟った弟子を褒めている。隠元禅師は「もし私のような盲目のロバに出会ったら、私は明王朝の僧侶であるので、決して新王朝を認めない」と自分の意志をしっかり主張しているのである。この詩は彼の政治的マニュフェストと見なすことができる。

梦游阔别已多年,偶到扶桑一寄缘。

无事清弹消白日,有时感赋问苍天。

侬家父老今何在,故国生民几变迁。

遥隔海涯徒慨叹,夜阑反复不成眠。

(《夜怀》)

诗中说,明王朝已经消散在历史的长河之中,也许自己东渡扶桑之后,就再也无法返归故乡。故国百姓的离乱之苦,仿佛就像夜晚的幽灵,不断地出现在自己的梦中。在隐元看来,对于故国的回忆和眷念,注定只能是一种永远无法排遣的乡愁。

闲适的生活情调。隐元禅师开创黄檗宗后,就退位过上安养生活。虽然晚年仍会想起故国的家园,但相对而言,他的生活还算比较惬意,这种闲适的生活情调,也构成了隐元晚年诗歌的一项重要内容。如:

故国繁华一扫休,不妨岛外恣优游。

万缘放下空诸相,茎草拈来成般舟。

度尽含灵到彼岸,平生弘愿已全周。

而今老迈浑无用,赢得皤皤雪满头。

遨游蓬岛等闲闲,十九星霜顷刻间。

勾出神京新檗苑,俨然无二旧家山。

(《安乐窝杂咏》)

(《闲中述意八首》)

故国的繁华一扫,意味着种种纷纷扰扰的牵绊已经渐渐远离,自己仿佛置身于海上蓬莱仙岛之中,体会到一种超凡脱俗的逍遥自在,似乎令人逐渐忘记了现实的痛苦。诗作中充满了闲适安逸的情调,这既是一种消解现实痛苦的自我想象、自我安慰,也一定程度上反映了隐元在日本获得尊重认可后生活境遇的改变,以及随着时间的流逝承担新的文化使命的新的人生感受。从中似乎不难看出,晚年的隐元,在不断融入新的文化环境的过程中,也得以看到故国的文化已经在新的国土上保存,并开始生根发芽、发展壮大,形成新的文化生命。故乡虽然经常入梦,却不是现实生活中他真实期望解帆放船的方向了。

隠元禅師は詩作の中で、忠孝の重要性を絶えず強調していた。明代後期の政治情勢が崩壊し、政局が腐敗したにもかかわらず、新旧政権の交代の下で、志気と節操を守ることは人として最も基本的なことである。「忠孝は第一の基盤であり、忠孝が守られれば、文学創作は自然に繁栄する」と述べたことがある。(『復独耀侍者』) 故国から反清の人々が犠牲になったニュースに直面して、隠元禅師も絶えず詩歌の中で、節義の士に対して賛美した。「死節尽忠真鉄漢、填溝塞涸是名賢」(『感懐』)、「丈夫処世貴成仁」(『偶成』)、「忠心懸碧漢」(『示忠岩信士』)、「丈夫処世貴成仁、心鏡揩磨日日新」(『示客』)といった詩句が所々に見られる。

夢うつつの世界と郷愁。隠元禅師の詩歌と偈陀の中で、母国を思う作品がたくさんある。1655年、即ち隠元禅師が日本長崎に着いた翌年、こんな詩を書いた。

竟日憨憨憩小楼、夢聞故国又驚愁。

火雲堆里微開眼、擬是梵天血濺流。

(『臥遊感懐二首』其二)

臥遊とは、日本の崇福寺にある臥遊居のことで、隠元の信者たちが隠元のために建てた住居である。当時、清王朝と鄭氏の間に戦いは続き、福建省の沿海は荒れ狂っていた。詩の中で隠元が怯えた老人ではあるが、戦場から万里離れていても、熾烈な戦いの様子が目に見えると書いてある。

隠元は晩年78歳の時に、『栖賢吟』を作った。その中に、「日寄新黄檗、夜帰古福唐」とあるが、この「福唐」は、ふるさとの福清の古称であり、夢の中でしかふるさとに戻ることができない気持ちを表している。晩年にはもう一つ彼の郷愁に満ちた詩がある。

夢遊闊別已多年、偶到扶桑一寄

無事清弾消白日、有時感賦問蒼天。

儂家父老今何在、故国生民幾變遷。