躲避战乱,保存文化

躲避战乱,保存文化

隐元禅师赴日带有传教和借兵双重目的,这是中日两国很多人都持有的观点。之所以有这样的说法,主要是因为隐元禅师赴日前,郑成功(1624—1662)曾主动提供资金、船只乃至部分人员支持。但是从现有文献记载来看,这些观点,恐怕是没有依据的。

首先,中日两国隔着浩瀚大海,东渡的所有僧人要到达日本只有海路一条。明末清初,郑成功的抗清军力控制着厦门,福建到日本长崎的海路也是由他控制。隐元禅师赴日最安全的方式,就是搭乘号称“国姓爷”的郑成功的船只。而郑成功非常敬重声望极高的隐元禅师,为他提供船只赴日也是人之常情。

其次,根据隐元弟子所编的隐元年谱记载,隐元于1654年5月10日离开福清前往厦门,住在仙岩受到郑成功招待,又于6月21日由郑成功船队护送离开厦门,同年7月抵达日本长崎。另一位弟子南源性派所编的年谱也记载“国姓公备斋金送仙岩”,后“拨舟相送”。“藩主”“国姓公”都是指郑成功。由此可见,郑成功是非常敬重隐元禅师的,在厦门给予他优厚的礼遇。隐元赴日后,郑成功还致信给他,表达了敬仰之情:“我有幸学习佛教禅法,开启了顿悟之门,今与您面见握手畅谈已来不及,只能临风凭空想见了。日本国人虽然殷勤四请,也不知道是否真的敬信禅法,能否做到广播临济宗风?或者只是虚慕您的名声而已?如果他们真的能诚心皈依佛法,您当然可以多待时日,阐扬三昧禅法。假若他们不诚心,您不必久留,当速回,不辜负中土檀那们的夙愿。”(陈智超,1995)

日本平户郑成功像,福清黄檗文化促进会供稿

鄭成功像 平戸市 (福清黄檗文化促進会提供)

戦乱を避け、文化を保存するために

隠元禅師の渡日には布教と借兵の二重の目的があったとよく思われている。何故かというと、隠元禅師が日本に渡る時、鄭成功(1624—1662)は資金や船、ないしは一部の人員まで自ら提供したからだ。しかし現有の文献資料からみると、これらの観点はおそらく根拠がないだ ろう。

まず、日中両国は広大な海を隔てており、日本に行くには海を渡るしかない。明が清にとって変わる頃、アモイ市および福建から日本の長崎までの海路は鄭成功により支配されていたため、隠元禅師渡日の最も安全な方法は、「国姓爺」と呼ばれる鄭成功の船に乗ることだった。また、鄭成功は名声の高い隠元禅師を尊敬したため、船を提供した。

次に、隠元の弟子が編纂した隠元年譜によると、隠元は1654 年5 月10日に福清を離れてアモイに向かい、仙岩に滞在している時鄭成功の招待を受け、6 月21 日に鄭成功の船団の伴いでアモイを離れ、同年7 月に日本の長崎に到着した。もう一人の弟子南源性派が編纂した年譜にも、「国姓公備斎金送仙岩」、後に「撥舟相送」と記されている。「藩主」「国姓公」はいずれも鄭成功のことを指す。このことから、鄭成功は隠元禅師を非常に尊敬し、アモイでよくもてなしをしたことがわかる。隠元が日本に渡った後、鄭成功から手紙が送られた。「私は幸運にも仏教の禅法を学んで、悟りの扉を開きました。しかし、今禅師と会って歓談しようとしても間に合わなく、ただ風に乗ってお会いしたいと思うだけです。日本人は何度も招聘したのですが、本当に禅法を信じ、臨済宗風を広めることができるかどうか分かりません。あるいは単に禅師の名声を慕っているだけなのでしょうか。もし彼らが誠心誠意仏法に帰依することができれば、禅師は長く滞在して、法を弘めてもよいですが、もしそうでなければ、すぐにお帰りになり、私たち檀越たちの懇願に応えていただけるように願います。」と鄭成功は敬慕の気持ちを表した。(陳智超、1995)

この手紙には反清復明については一言も言及されていないことから、二人は仏教の信者と法師との関係がより明白だと窺い知れる。もちろん、このような噂も、全く根拠がないわけでもないようだ。主な根拠は、明から清へと時代が移り変わる時期に直面した際、彼らが共通して持っていた思想感情だと言えよう。

信中只字未提及有关共同反清复明的意思,从中我们可以感受到的,更多是佛教信仰者与法师的关系。当然,这方面的传闻,也并非毫无根据,主要的依据就是面对明清易代时期,他们所具备的共同的思想感情。

由于清兵的不断南侵,隐元禅师所主持的福清万福寺也岌岌可危,为了安全起见,他不得不暂时到其他寺院避难。清兵从北到南的烧杀抢掠,造成无辜民众死伤数量巨大,生民涂炭。隐元向来对人间疾苦有着深厚悲悯的情怀,对劳苦大众的所苦感同身受,在此种时代背景下,对清兵的厌恶和对明朝的怀念,在情理之中,在意料之中。而事实上,感情上的相通并不等于就负有秘密的使命。我们翻阅隐元禅师在厦门的行踪文献,并无发现他与郑成功有不可告人的秘密关系。在新的史料发现之前,我们只能说,郑成功与隐元禅师的关系,是佛教信仰者和法师的关系。隐元禅师的赴日,是为了传弘佛法,隐元禅师并未负有郑成功的特殊使命。(胡沧泽,1997)

日本学界还有一种观点,认为隐元禅师渡日的原因,主要是为了避开清兵入侵的时局。日本学界根据隐元禅师年谱中所记载的文献,认为隐元禅师渡日前在中国遭到迫害,居无定所,所以渡日是为了避乱保身。这完全是对隐元禅师在当时中国的情况不了解而做出的毫无根据的猜测。万幸的是,隐元禅师及所在的黄檗山万福寺,并未受到清军的毁坏,此后,他通过兴建庙宇、广置农田、开堂说法等方式,努力振兴黄檗宗,使得黄檗山成为东南一大名刹。自然,隐元禅师生在易代乱世,个人无法脱离大环境的影响,因为战乱,他辗转各地避难,一定程度上也促成了之后的东渡。面对明朝的灭亡,他也只能作诗感慨:“可怜南国风光媚,半入胡笳不忍听。”这首《纪春》作于1654年,“可怜南国”说的就是他所处的南方福建沦陷,风光再美也抵挡不住听闻“胡笳”音的悲痛。胡笳原是古代北方民族的一种乐器,这里指代清朝政府。从“可怜”“不忍”字眼,我们可以感受到隐元禅师内心深处的亡国悲痛。中国学者林观潮认为隐元禅师作为明朝遗民,东渡海外,弘扬禅宗这一“中华祖道”,保存了明朝文化,是他对亡国命运的抗争。(林观潮,2013)总之,隐元禅师渡日是偶然因素与必然因素相互作用的结果,日方的主动与诚敬是主导,隐元禅师的声望与弘法使命是基础。

清軍がますます中国南部へ侵攻するにつれて、福建省の黄檗山万福寺も何度も襲われ、隠元禅師はほかの寺院に避難せざるを得なかった。清軍は至る所で家を焼き払い、人を殺し、金品を略奪した。一般民衆まで膨大な死傷者数が出て、苦しみをなめていた。隠元は昔から民衆の苦しみに深い哀れみの情を持っていたため、この状況の中で、清軍に対する嫌悪と明に対する懐かしさが出てくるのは当然のことである。実際には、隠元と鄭成功は共通の感情を持っているとしても、共通の使命を持っていると言えない。筆者は隠元禅師のアモイ滞在の文献を調べたところ、二人の間に秘密の関係が見つからなかった。新たな史料が発見されるまでは、二人の間は、信者と法師との関係でしかないと言えるだろう。隠元禅師が日本に赴いたのは、弘法のためであり、鄭成功からの特別な使命を負っているのではなかった。(胡滄沢、1997)

日本平户郑成功纪念馆,福清黄檗文化促进会供稿

鄭成功記念館 平戸市 (福清黄檗文化促進会提供)

1654年6月21日,隐元禅师道别诸子,作偈云:“江头把臂泪沾衣,道义恩深难忍时。老叶苍黄飘格外,新英秀气发中枝。因缘会合能无累,言行相孚岂可移。暂离故山峰十二,碧天云净是归期。”(平久保章,1979)离别总是充满悲伤,江头师徒涕泪沾湿衣服,道德恩义让人难以割舍,老叶也要飘黄,新叶重新萌发,因缘会合如此,言行一致不可动摇,但这种离别只是暂时的,以后必定归来,那时期待天蓝云白,家国形势一片大好。禅师对弟子们充满了信心,赴日之举是因缘会合之果,言出必行。隐元禅师答应弟子众檀越赴日三年是归期,因此诗中说只是暂离黄檗山十二峰,等到碧天云净之时就是归来日。

隐元东渡明船模型,福清黄檗文化促进会供稿

隠元禅師東渡明船模型 (福清黄檗文化促進会提供)

日本の学界では、隠元禅師の渡日は主に清軍の侵攻を避けるためであるという説もある。それは隠元禅師の年譜に記載されている文献に基づいて、隠元禅師が渡日前に中国で迫害され、居所がなかったため、乱を避けて身を守るために渡日したと考えたもので、当時の状況を知らない無根拠な推測だと考えられる。当時の黄檗山万福寺は清軍の侵害を受けなかった。隠元禅師は伽藍の復建、農地の広置、開堂説法などを通じて黄檗宗の振興に努め、万福寺を東南地域の名高い寺と復興させた。当然、隠元禅師は明清交替の乱世に生まれたので、社会の影響から逃れることができず、戦乱のため各地を転々と避難し、それは日本への渡航に関わっているのも確かなことである。明の滅亡を前に、隠元は「可憐南国風光媚、半入胡笳不忍聴」と詩を作ったが、ほかにできることは何もなかった。この「紀春」という詩作は1654 年に作られ、「可憐南国」とは、中国南部にある福建の陥落を指し、いくら美しい風景でも「胡笳」の音を聞いた時の悲しみには耐えられない。「胡笳」とは古代北方民族の楽器で、ここでは清朝政府のことを指す。「可憐」「不忍」という言葉から、隠元禅師の心の奥底にある亡国の悲しみを感じることができる。中国の学者林観潮は、隠元禅師が明の遺民として海外に渡り、「中華祖道」としての禅宗を発揚し、明の文化を守ったのは亡国の運命への抗争だと考えている。(林観潮、2013)要するに、隠元禅師の渡日は偶然と必然両方の要素によるものであり、日本側の敬意のこもった積極的な招請は第一の理由で、隠元禅師の名声と弘法の使命もその理由である。

1654 年6 月21 日、隠元禅師は諸僧徒に別れを告げ、「江頭把臂淚沾衣、道義恩深難忍時。老葉蒼黃飄格外、新英秀氣發中枝。因會合能無累、言行相孚豈可移。暫離故山峰十二、碧天雲淨是歸期」と詩偈を残した。(平久保章、1979)別れは常に悲しみに満ちたものであり、川岸に立っている師と弟子は涙で服を濡らし、道徳恩義からその別れがさらに辛い

日本长崎福建会馆,福清黄檗文化促进会供稿

福建会館 長崎市 (福清黄檗文化促進会提供)

海上航行期间,禅师夜怀作诗云:“万顷沧浪堪濯足,一轮明月照禅心。可怜八百诸侯国,未必完全得到今。”(平久保章,1979)海上惊涛骇浪,明月当空,禅师思绪翻涌,诗句中透露出对旧朝的依恋、对新朝的不满。有一天夜里,隐元还梦见也懒性圭等弟子千余人,一起参禅拜谒。第二天黎明梦醒之后,面对世事变幻,隐元感慨万千,就像沿途的大海一样,浪涛翻滚。还算万幸,一路上总体风平浪静,一帆风顺,行驶十五日后直抵长崎。

到达长崎港的前一个晚上,渔人看见海上红光亘天,一开始以为是船只失火,各操舟救援,快接近时候红光忽然不见了,才明白是瑞光出现,大家就各自回家了。第二天一早隐元禅师登岸,大家始知昨夜红光乃是隐元禅师入日本国的祥瑞之相。至此,隐元禅师正式开启日本黄檗宗的弘法盛举,并为中日文化的交流创造了不朽的业绩。