爱国禅师即非如一
木庵性瑫到日本不久后,他的法弟即非如一东渡日本,来到长崎港,两人分别在福济寺、崇福寺弘法,引起不小的轰动,被称为长崎的“二甘露门”(甘露门,佛教用语,甘露为涅槃之譬喻,故趋赴涅槃之门户譬之为甘露门)。
即非如一(1616—1671),俗姓林,福建省福清市人,南宋理学家林希逸的裔孙,隐元的嗣法弟子。十八岁时他在福清县龙山寺落发为僧。后拜隐元为师,曾住持福州雪峰寺。清顺治十四年(1657),即非也应隐元之命东渡日本,在长崎担任崇福寺的住持,他长崎的生活与国内几乎没有什么变化,崇福寺的檀越外护多是福建籍移民,长崎的樱花在他眼中如同桃花般美丽,长崎的风景民俗与中国十分相似,他完全没有身处异国的陌生感,这让即非十分高兴。
日本宽文三年(1663),即非离开长崎前往京都宇治黄檗寺看望隐元。京都是日本的政治文化中心,即非如一看到京都寺庙规模宏大,百姓生活安乐,这番情景与中国国内动荡的局势形成鲜明的对比,在他协助隐元管理万福寺的这段时间,他的心境应该是祥和的。
虽然即非如一在日本常有身处故国家园的感觉,但他始终没有完全放弃回国的念头,这与他的爱国情愫有关,当年崇祯皇帝自尽时,即非如一十分震惊,他专门写了《哭崇祯帝》等诗文表达了对明王朝覆灭的痛楚。当初他选择东渡日本,主要也是因为国内形势动荡,不如跟随隐元,东渡弘法,还可有所作为。
日本万福寺木庵纪念碑,福清黄檗文化促进会供稿
木庵禅師記念碑 日本万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
日本の貞享元年(1684)正月、木庵は万福寺で死去した。享年74歳。1881年、明治天皇から「慧明国師」の称号を追贈された。
愛国禅師の即非如一
木庵性瑫が日本に来て間もなく、彼の法弟である即非如一は日本に渡って長崎港に来た。二人はそれぞれ福済寺、崇福寺で法を広めて、かなりの騒ぎを引き起こした。長崎の「二甘露門」と呼ばれていた(甘露門、仏教用語、甘露は涅槃の比喩で、涅槃に向かう門戸にたとえて甘露門)。
即非像,福清黄檗文化促进会供稿
即非禅師像 (福清黄檗文化促進会提供)
如今,看到隐元禅师已在日本立稳根基,万福寺初具规模,他决定回国,重新住持福州雪峰寺。回国途中,他路经日本福冈县,被小仓(今北九州市小仓北区)藩主热情挽留,即非如一打消回国念头,于1665年开创了广寿山福聚寺。即非如一是开山住持,他在此寺传法四年,和他的法嗣开创广寿派,广寿派也成为黄檗宗第二大派系。日本宽文八年(1668),即非禅师请法云明洞禅师住持福聚寺,自己则退隐于长崎崇福寺。
即非如一作为林希逸的后裔,精通儒释之道,师从本县的理学家陈藻,师生二人并称为“福清两夫子”。林希逸对《老子》《庄子》的阐释影响后世,也是日本学界认识老庄的重要典籍,即非如一东渡之后,据家传旧本与日本同行本比对,以《即非老子经》刊行于世,在江户日本广受欢迎。即非如一擅长草书,与隐元隆琦、木庵性瑫并称“隐木非”,号“黄檗三笔”。
即非如一(1616—1671)は、俗姓は林、福建省福清市の人で、南宋の朱子学者林希逸の孫で、隠元の嗣法の弟子だ。18歳で福清県の龍山寺で髪を下ろして僧となった。その後、隠元に師事し、福州の雪峰寺に住職した。清順治十四年(1657)隠元の命を受けて日本に渡り、長崎で崇福寺の住職を務めていた。彼の長崎での生活は中国とほとんど変わりがなくて、崇福寺の檀越や外護の多くは福建籍の移民であった。長崎の桜は彼の目の中で桃の花のように美しくて、長崎の風景や民俗は中国と非常に似ており、彼は全く異国にいる違和感がなくて、とても嬉しかった。
日本の寛文三年(1663)、即非禅師は長崎を離れて京都宇治の黄檗寺に隠元を訪問した。京都は日本の政治文化の中心であり、京都の寺院の規模が大きく、庶民の生活が安定していた。この情景は、中国の国内の混乱とは対照的であった。即非は隠元の万福寺管理に傍らから協力し、この時期の彼の心境は穏やかであったはずだ。
即非は日本でいつも故国にいるような感じがしていたが、国に戻るという考えを完全諦めたことはなかった。これは彼の愛国感情と関系がある。崇禎皇帝が自殺した時、彼は非常にショックを受け特別なエッセイを書いた。『哭崇禎帝』などの詩文は明王朝の壊滅に対する痛みを表現している。当初彼が日本に渡ることを選んだのも、主に国内情勢が不安定なためで、それなら隠元禅師に付き従い、日本に渡ったほうがまだ何かできると考えたからだった。
現在、隠元禅師が日本に確固たる基盤を築き、万福寺の規模が大きくなったのを見て、即非は帰国して福州の雪峰寺の管理を再び担うことにした。帰国の途中、福岡県を経由し、小倉(現在の北九州市小倉北区)藩主に温かく引き止められた。彼は帰国の念を捨て、1665年に広寿山に福聚寺を開創し、開山住職になった。またはこの寺で4年間法を伝授し、彼の法嗣と一緒に広寿派を開創した。広寿派は黄檗宗で第2位の派閥である。寛文八年(1668)、彼は法云明洞禅師に福聚寺の住職を務めてもらい、自分は長崎の崇福寺に隠棲した。
即非は林希逸の末裔として儒教·釈の道に精通し、本県の理学家陳藻に師
日本万福寺即非莲,福清黄檗文化促进会供稿
即非蓮 日本万福寺 (福清黄檗文化促進会提供)
宽文十一年(1671),即非如一圆寂,享年五十六岁。