附录:書道傑作,恩恵今迄——漢中「石門十三品」拓本展示作品の概説

附录:書道傑作,恩恵今迄——漢中「石門十三品」拓本展示作品の概説

冯歳平

光緒六年(明治十三年,1880)、日本を訪れた中国の有名な学者である楊守敬(1839~1915)は、石門十三品の一部の拓本をもたらし、多くの日本人との交遊を通して、漢魏六朝の石刻を中心とする新たな書道ブームを巻き起こしました。日本書道界に対する楊守敬の貢献は、今日においても高く評価されています。それ以後、日下部鳴鶴(1838~1922)、比田井天来(1872~1939)、中林梧竹(1827~1913)など日本の書道家の関心を引きつけ、漢中石門摩崖石刻の臨書と研究が行われました。この三十年に限っても、種谷扇舟、中田勇次郎、西林昭一、杉村邦彦、小木太法などの学者を代表とする数多くの日本代表団が摩崖碑見学のために漢中を訪問しています。種谷扇舟先生は1985年に漢中市を訪れた際に「漢中石門、日本の師」と題書され、中田勇次郎先生も1986年に漢中市を訪れた際に「蜀道摩崖隷草の奇、天然古秀入神の技。春潭千丈の緑は旧に依り、移して巉岩を得るは中外の知」との題詩を残されました。また牛丸好一先生も『漢中褒斜道石門摩崖石刻』という本を毎日コミュニケーションズから出版しておられます。「石門十三品」を代表とする漢中の摩崖·名碑は「国宝」であり、すでに人類共有の文化遺産となっているのです。

今回はちょうど出雲市と漢中市との交流20周年に当たり、原隆利氏を代表とする各方面の皆様の紹介で、石門十三品を中心とする漢中の有名な摩崖碑の拓本を出雲市文化伝承館で展示することになりました。これを契機として漢中市と出雲市との友好交流関係がさらに発展していくようお祈りいたします。その意義はきわめて大きく、中日の書道と文化交流の歴史に記録されることでしょう。

一、「石門十三品」の概説

「石門十三品」また「石門漢魏十三品」という名称は清代からはじまりました。「石門十三品」とは古褒斜道石門トンネル及びその南北の崖にある、以下の十三種類の摩崖石刻の総称です。

後漢『鄐君開通褒斜道』摩崖、略称『大開通』

後漢『故司隷校尉楗為楊君頌』摩崖、俗称『石門頌』

後漢『右扶風丞李君通閣道』摩崖、略称『李君表』

後漢『楊淮·楊弼表記』摩崖、俗称『楊淮表記』

漢隷の大字『石門』摩崖

漢隷の大字『石虎』摩崖

漢隷の大字『玉盆』摩崖

漢隷の大字『袞雪』摩崖

三国曹魏『李苞通閣道題名』摩崖、略称『李苞題記』

北魏『石門銘』摩崖と『石門銘小記』摩崖、総称『石門銘』

南宋『鄐君開通褒斜道釈文』摩崖、略称『大開通釈文』

南宋『山河堰落成記』摩崖

南宋『釈潘宗伯·韓仲元李苞通閣道題名釈文』摩崖

これらの石刻は、石門トンネルの内部、石門の南北の断崖、褒河の河川敷などにあり、ほとんどが摩崖です。

石門は険しい鶏頭関のもとにあります。後漢の永平年間(58~75)に、明帝の詔によって、褒斜道が修復され、人類史上初の通行可能なトンネルである石門が掘られました。それについては、『石門頌』に「永平に至り,其の有四年,詔書もて斜を開き,石門を鑿通す」と書いてあります。『石門頌』は、開通する方法を「鑿通(掘り抜く)」と説明していることから、石門と南北の桟道を掘り抜いたのは、全て人工であったことが分かります。その時代にはまだ「隧道(トンネル)」という言葉がなかったので、人々は俗に「石門」と称したのです。北魏の酈道元が著した『水経注』の巻27に「褒水又東南に小石門を歴り山を穿ち道を通ずること,六丈有余」との記述があります。実地調査によると、石門はやや南北走向で、大体褒河の河谷と平行で、その基面は南北桟道と同じレベルなので、南北の貫通において平坦で通行しやすいことを証明しています。石門の東の壁と西の壁は長さが少し異なっていて、東の壁の長さは16.5メートルで、西の壁の長さは15メートルです。南口の高さは3.45メートルで、幅は4.2メートルです。北口の高さは3.75メートルで、幅は4.1メートルです。漢中と関中(今の陝西省の地)とを結ぶ道は開かれており、軍事的·商業的に極めて重要な道でした。北魏の『石門銘』には「穹窿たる高閣、車の轔轔たる有り。威夷たる石道、駟牡其れ駰。千載、軌を絶つも、百輌、更新す」と記されており、かつて石門を通行していた頃の盛況のありさまを伝えています。

漢中と関中(今の陝西省の地)とを行き来するには、非常に険しい谷と山を越えなければならず、通行するには川に桟橋をかけて道を確保しなければならないほど狭く厳しい状況でした。当時の工事担当者や石門を通行した文人たちは、文章という形で、改修が続けられた道を記述し美しい景色を賛美し、それを摩崖に刻しました。これらの摩崖は「石門石刻」と総称されています。一番早いのは、後漢の永平九年(66)に刻された『鄐君開通褒斜道』摩崖で、最も遅いのは民国時期に刻されたものです。その期間は約2000年におよび、数量は178品にのぼります。石門石刻に残された記録は文献に記載していないものが多いので、褒斜道の歴史を記した「書類の倉庫」と見なされ、蜀の桟道を実証する貴重な証拠です。

書道の面では、「石門十三品」は書道芸術の宝庫であり、それぞれの石刻は書道の傑作です。漢の隷書の傑作とされる『鄐君開通褒斜道』摩崖は、「古拙で石の筋目のような天然の美しさをもち、誰も真似ることができない存在である」と評されています。『石門頌』·『西狭頌』·『郙閣頌』をあわせて「漢三頌」と呼び、その書は、「野にいる鶴やのんびりと飛ぶ鴎のように自然で、飄々として仙人の住む世界のようである」と評されています。清代の張祖翼は「三百年以来、漢の書道を習う人は『石門頌』を真似して学ぶ人は一人もいない。なぜならば、『石門頌』のもつ圧倒的な力強さに怖じ気づいてしまい、力の弱い者は学ぶことができなくなるからだ」と言われています。『石門銘』は「玉のように美しい島の仙人が、鸞に驂(添え乗り)し、鶴に跨っているようだ」と比喩され、絶妙の作品と称賛されています。『鄐君開通褒斜道』摩崖は篆書から隷書に移る過渡的な書体で、その変化を表しています。『石門頌』は漢隷の傑作と称せられています。『楊淮表記』は暢達、気品があり、『石門銘』は隷書から楷書に移る過渡的な書体で、北魏書の規範です。『山河堰落成記』は南宋の隷書の第一人者と称せられる著名な書道家であった晏袤が書いたものです。これらはいずれもその書法の美しさと品格の高さ、影響の大きさから、国内外において高い評価を受け、金石学家や書道家の貴重な歴史文化遺産になっています。また、これらの摩崖石刻を通して、隷書の成立と発展の過程をはっきりとたどることができ、字体研究の上からも、中国で現存最古の摩崖の石刻群の名に恥じない貴重な資料となっているのです。

二、その他の漢中石碑

今回展示する拓本は「石門十三品」のほかに、漢代の『郙閣頌』·『仙人唐公房碑』、南北朝の『北魏攻閣道碑』·『楊愔墓誌銘』·『姜太妃墓誌』、唐天宝八載の『宴遊記』、南宋の田克仁の『重刻郙閣頌』·『儀制令』と民国の章草の大家である王世鏜の作品もあります。

『析里橋郙閣頌』の略称は『郙閣頌』です。建寧五年(172)二月十八日に刻されました。もとは陝西省略陽北の徐家坪にありましたが、1979年に道路をつくる時に破壊され、残された石碑は現在、霊岩寺に保存されています。石碑には、「古より今に到るまで、創楚せざるは莫し」とじう文があります。建寧三年二月に、李翕は、陝西省略陽県西の析里橋と郙閣を建設したため、『析里橋郙閣頌』は彼の頌徳碑として伝えられています。康有為は「体法茂密、漢末已に渺、後世知る者無し、唯だ平原(顔真卿)の章法、結体独り遺意有り」と評しています。南宋の理宗の紹定三年(1230)に、沔州(今の略陽)太守の田克仁が京口(鎮江)から拓本を手に入れ、再び霊岩寺の石崖に刻しました。現在、原刻と重刻は同じところにあり、互いに参照することができます。

『仙人唐公房碑』はもと漢中城固県許家廟鎮にありましたが、1970年に西安碑林へ移しました。石碑は圭の形で、円額、縦190.0センチメートル、横66.0センチメートルです。瞿廷韶は 「書は謹厳端正な隷書で漢碑の傑作」と評しています。

漢中市博物館に陳列している南北朝梁の『楊愔墓誌銘』は、平魏征東大将軍である楊愔の墓誌銘であり、「梁封太子少保開国靖公平魏征東大将軍督都揚徐荆三州軍事加贈福寿長清王楊公墓」の文字が残っています。石碑は逆立ちの斗の形で、正面と背面と側面も陰刻し、書法補助線もあリます。2010年には、略陽横現河鎮で『姜太妃墓誌』が発見されました。正始元年(504)に刻され、仇池国の姜太妃の徳を頌したもので、今までに発見された唯一の仇池国の石刻です。今回は展示していませんが、これ以外にも城固の『石黒奴造像記』や天和六年(571)の『造像記』があり、これらは『石門銘』とともに漢中の南北朝期における石刻群を形成しています。

また唐の天宝八載(749)の『宴遊記』摩崖は、略陽県城関鎮七里店にあり、順政郡太守の房渙が書いたものです。書風は伸びやかで筆力があります。それ以外では南宋の交通規則を記した『儀制令』(略陽の霊岩寺に保存)と民国の章草の大家である王世鏜の作品もあります。これらはいずれも非常に価値の高い書道の傑作です。拓本を通してその芸術的な魅力をお楽しみください。

イタリアのベネデット·クローチェは「すべての歴史は現代史である」という言葉を残しています。中国書道史はさまざまな地域の書道史の累積によって成り立っています。今回展示している石刻は、漢中の古代から現在までの貴重な記録であると同時に、中国書道史においてきわめて重要な位置を占めています。本日、石門摩崖を鑑賞される皆さんのご様子を拝見しながら、私は、これらの石刻が単に中国古代の書道芸術の一部というにとどまらず、地域や国境を超えた人類共有の貴重な文化遺産に他ならない、という思いをあらためて強く感じております。この素晴らしい文化遺産をゆっくりとご鑑賞ください。

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